地租軽減 

 

(ちそけいげん)

【近代】

明治6(1873)年7月の地租改正条例は、改租の5年後に地価を改定すると規定したが、政府は12年さらに5年間の地価の据え置きを決めた。また同条例は物品税(茶・煙草・材木などに賦課)の収入が200万円を超えたときには、地租を地価の3%から1%へ軽減すると規定していた。この規定を根拠にして地価の軽減を政府へ求める運動が高まっていった。明治17年3月、政府は地租条例を公布し、地価の5年ごとの改定および地租の1%への減額の規定を廃止した。これをきっかけに地租軽減を要求する運動が、愛知県のみならず、大阪府・和歌山県・静岡県などの府県で盛んになった。17年3月、碧海郡阿弥陀堂村では人民惣代の名で愛知県に減租願が提出されたが、同文の願書写は碧海・加茂両郡内の各村に残されており、共同した嘆願運動が組織されていたことがわかる。この願書では明治16年度に物品税などの総額は2000万円を超過していることを理由に地租の減額を要求していた。また明治10年代後半から初期議会にかけて、地租軽減は自由民権運動の政治的要求となっていた。しかし政府は日清戦争後の明治31年地租を地価の3.3%に増徴した。その後大正3(1914)年にも、愛知・静岡・三重・岐阜などでは地租軽減運動が行われ、政府に減租請願書を提出するために署名活動が組織された。西加茂郡内でも請願書が各町村から提出され、日露戦争後の農村の経済的困窮を救うことを政府に要望した。こうした運動を活発化するために同年7月、愛知県地租軽減期成同盟会が結成され、西加茂郡にも支部が設立された。

『新修豊田市史』関係箇所:4巻59・394ページ、10巻291ページ