地方改良運動

 

(ちほうかいりょううんどう)

【近代】

日露戦争後、荒廃した地域社会と市町村の改良や再建を目指した官制運動のこと。日露戦争では多大の戦費が必要となり、戦時体制の下で増税が実施された結果、地域の財政は破綻寸前に追い込まれた。また、社会の矛盾が噴出、ポーツマス条約への不満などで動揺した人々の意識を再統合することが目指された。第二次桂太郎内閣の平田東助内務大臣と一木喜徳郎内務次官ら内務省主導によって運動が推進され、明治41(1908)年10月に戊申詔書が渙発された。ここでは、日露戦争後の社会的混乱を是正し、今後の日本は欧米列強に対抗するためには国家発展、具体的には国内体制の整備や強化を早急に実現することが目指された。そのために必要な道徳の標準を、詔書という形式、つまりは明治天皇の名を借りて国民に示したのである。内務省はその後、この戊申詔書で求められた課題を具体的に事業として展開していく。明治42年には都道府県官や郡官、市町村吏員を招集して地方改良事業講習会を開催、各道府県でも地方改良講習会が実施され、地方改良運動が開始された。まず、町村の財政基盤の強化と国民それぞれの勤倹貯蓄が奨励された。町村の体力を強化するために町村合併が推進され、貯蓄組合や納税組合の設置も進められ、これらによって町村ぐるみで貯蓄励行や納税強化が目指された。東加茂郡でも貯蓄組合が結成されている。また、農会や産業組合などの設立が奨励され、地域の産業を振興することが提唱された。そのほかにも、青年会や在郷軍人会、婦人会や処女会など、町村にはさまざまな組織が結成され、これらが行政組織の補助的団体として組み込まれることで、地域行政の末端的な役割を担ったほか、人々を統合する役割を果たしていく。足助町で創立された足助町共同救護社も地方改良の動きから地域の社会事業を展開する組織であった。また、地方改良運動ではこうした団体の核となって運動を推進する模範的人物の顕彰が積極的になされていく。国家が推進する政策を担う人々が表彰されることで、その政策が地域社会により浸透していくことになる。

『新修豊田市史』関係箇所:4巻384ページ、11巻19ページ