(ちゅうじょうあきひで)
【古代・中世】
三河国高橋荘の武士中条時長の子か。貞治元(1362)年頃に元服して、2代将軍足利義詮の一字を授かり、詮秀と名乗る。詮秀は猿投社に修繕や願掛けなどのため、所領を寄進していた文書が数通確かめられる(写真)。永享4(1432)年、6代将軍足利義教が富士遊覧のため下向した際、詮秀は将軍に礼を十分に尽くさず、悪しき振る舞いによって切腹を命じられたという。ただし、詮秀は上洛の途中に尾張国で討たれたと伝える史料もある。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻370ページ
→ 足利義詮