中条氏(八草)

 

(ちゅうじょうし(やくさ))

【古代・中世】

衣(金谷町)を拠点とした奉公衆中条氏の血統を継ぐ、16世紀後半に八草町一帯を本拠とした中条氏支流。本宗家の衣中条氏が、天文19(1550)年12月から同23年11月までの間に今川氏によって没落させられたのちも、反今川としての活動を続けた。同21年に反今川勢力として中条与三郎は九久平(九久平町)に立て籠もった。永源寺(現永澤寺、篠原町)の過去帳に、天正2(1574)年3月に同寺で荼毘に付された人物として「中条与三郎殿」とある。先記の与三郎本人またはその血統の人物であろう。みよし市から日進市一帯を支配した丹羽氏の子孫が江戸時代にまとめた軍功録によると、天文20年頃、丹羽氏は一族内で織田方・今川方に分かれて争い、敗れた織田方の丹羽氏秀は広見城(広幡町)の城主中条将監を頼り、ここに身を寄せたという。『七州城沿革小史』によると、広見城は八草城と一体の城という。『信長公記』に、萱津の戦い以来、織田信長家臣としての幾多の武功が記されている中条小一郎(のち将監)秀正は、八草中条氏の一族とみてよい。彼は天正5年に広見郷正林寺(広幡町)に田地を寄進し、また、これに先立ち「廃壊」していた猿投神社の堂舎の再建を果たして、同年に没している。翌年、息子の秀清が新堂舎への遷宮を実現した(写真)。


『新修豊田市史』関係箇所:2巻525・589ページ