中条長秀  ?~1384

 

(ちゅうじょうながひで)

【古代・中世】

南北朝時代の武士。中条景長の子。兵庫頭の官職を帯びる。貞治3(1364)年までに出家するが、そのあとの法号は元威。この官職と法号で表記されるのは長秀であることが現在では定説になっているが、以前はそうではなかった。そのため、かつての研究では、このように史料上にあらわれる人物を、長秀の叔父の秀長に比定して中条氏の歴史を描くこともなされていた。そうした混乱が修正され、秀長と長秀の事蹟を正しく区分けし、位置付け直す作業によって、現在のような南北朝時代の高橋荘と中条氏の歴史像が組み立てられてきたのである。また、秀長が活動していた時期にそれと並行してあらわれる中条刑部少輔を、かつては長秀に比定することもあったが、これも現在では熱田大宮司家系統の中条挙房とされており、長秀とは無関係である。現在の中条氏研究は、こうした基礎的な長秀の位置付けの作業を土台に進められている。それによれば、長秀は延文2(1357)年までに叔父の秀長から中条氏の家督と高橋荘の地頭職を継承したと考えられる。この年、足利義詮は高橋荘領家の石清水八幡宮からの訴えを受けて、中条兵庫頭による「押領」を認定している。この兵庫頭が長秀である。現実には石清水八幡宮が高橋荘での権益を回復するまでには至らなかったようであるが、こうした幕府の姿勢は、秀長という有力者が去ったあとの中条氏が一時的に勢威を弱めていたことを物語る。しかし長秀は、以降の幕府内での活動を通して、再び自らと中条氏の立場を強めていった。公的な役職としては貞治4(1365)年までに伊賀守護となり、また幕府内でもさまざまな奉行をつとめていて、康暦3(1381)年1月までは評定衆としてその地位を保っていたことが確認できる。また、足利義詮の側室や足利義満の夫人が長秀邸で子どもを産むこともあったように、足利将軍家との関係も密接なものとしていった。さらに、実際に幕府の政務にあたる評定衆クラスの武士たちと、茶会や寄合で席を同じくすることも多く、そうした場がさまざまな有力者の間での人脈づくりに関わっていたことも推測できる。そうした活動の一方で、長秀は歌人としても知られる。『新千載和歌集』や『新拾遺和歌集』などの勅撰和歌集にも詠歌が入集するなど、長秀に対する歌人としての評価は高い。さらに剣道中条流の開祖としても知られる。将軍の近臣として政務での有能さを示すとともに、文武の両面にわたって多芸な人物であった。なお、豊田市内の長興寺は南北朝時代に中条氏によって創建された寺であるが、その開基となったのも長秀である。これもかつては秀長と混同されたが、史料に記されたのは長秀で間違いはない。おそらく、実際に中条氏を率いて長興寺の開山太陽義冲を招いたのは秀長であったが、後代につながる寺院の創建には後継者となる甥の長秀の名を掲げたのであろう。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻320ページ

→ 高橋荘長興寺