中世瓦

 

(ちゅうせいがわら)

【考古】

三河地域では7世紀後半に古代瓦の生産が最も盛んになったが、8世紀後半の国分寺の造営以降は継続的な生産活動が行われなくなり、10~11世紀にはほぼ皆無の状態となる。その後12世紀代になると再び瓦葺建物の造営が行われるようになり、岡崎市大門遺跡では三巴文軒丸瓦などが出土している。これらは古代瓦に比べ、文様や製作技法が大きく変化していることから中世瓦と呼ばれている。三河地域では、その後13世紀にかけて中世瓦の生産や使用が、高橋地区寺部遺跡(写真)や挙母地区長興寺遺跡、松平地区六所山遺跡や岡崎市滝山寺などの山林寺院を中心にみられるようになる。軒平瓦の文様には連珠文が多い。また足助地区の塩狭間窯跡からは特殊な三巴文軒丸瓦や唐草文軒平瓦などの中世瓦が多量に出土し、一部は足助八幡宮周辺に供給されていたことが明らかにされている。


『新修豊田市史』関係箇所:2巻161ページ、20巻724ページ

→ 塩狭間窯跡