超願寺本堂

 

(ちょうがんじほんどう)

【建築】

和会町(上郷地区)。当寺は、安永7(1778)年11月に開基円隆が字北東郷に一宇を創建したのが始まりである。その後、寛政2(1790)年に現在地に移され、嘉永6年(1853)に超願寺と号した。現本堂は寛政2年に境(刈谷市)の泉正寺の古堂を購入して移築したといわれる。その後、文化8(1811)年に修復されている。本堂は、寄棟造、本瓦葺、向拝1間(実長2間半)付で、東向きに建てられる。軒は一軒疎垂木。本堂規模は、桁行実長6間半、梁間実長6間、江戸時代中期の小型の真宗本堂の特徴を示す。間取りは、堂前半の間口6間半、奥行2間を外陣、その奥1間を矢来内とし、外陣・矢来内の正側三方には半間幅の濡縁が廻され、正面中央に向拝と木階3級を設ける。堂後半では、中央の間口2間半を内陣、両脇の間口2間を余間とし、ともに奥行2間半で、その内の背面半間に脇仏壇と余間仏壇を設ける。余間の外側には間口1間半の落間を配し、堂背面には奥行1間の後堂を通している。内陣は来迎柱と須弥壇による後門形式がとられる。来迎柱と内陣側面の中柱の4本を円柱とするほかは面取角柱である。床高は余間の床を上段、内陣を上々段とする。虹梁は、矢来内正面の柱間、外陣内梁行の柱間、脇仏壇・余間仏壇正面の柱間、来迎柱の柱間に渡され、矢来内正面と外陣内梁行および脇仏壇・余間仏壇正面の虹梁上に蟇股を載せる。外陣外廻りは正面中央の柱間3間に双折桟唐戸と旧障子、その両脇間に旧蔀戸を吊る。内陣および余間正面は柱上に出組斗栱を載せ、内法上に鳳凰や龍や菊の高肉彫欄間を嵌め、柱間には内陣前に双折巻障子、余間前に千本障子を入れる。内陣廻りにも柱上に出組を配す。天井は、外陣と矢来内を小組格天井、余間を格天井、内陣を折上格天井とし、落間と後堂を棹縁天井とする。この堂を復原すると、堂後半の下屋部分がなくなり、余間と内陣とでは、脇仏壇と余間仏壇が半間手前に移されて古式な通し仏壇の形式がとられ、内陣と余間の奥行が9 尺となる。


『新修豊田市史』関係箇所:22巻71ページ