(ちょうこうじかんのんどう)
【建築】
長興寺(挙母地区)。寺は、臨済宗、建武2(1335)年に東福寺の開山聖一国師の法嗣太陽義冲を開山、中条秀長を開基とし、同氏の菩提寺として開かれたという。秀長は貞和4(1348)年に寺領を寄進して伽藍を整えた。しかし、応仁の乱(1467~77)後に寺は衰微し、永禄10(1567)年に織田信長の兵火に遭い、元禄11(1698)年再度火災に罹るが、翌年復興が始まり、天保12(1841)年に観音堂(仏殿)が落慶した。観音堂は、桁行3間、梁間3間半、寄棟造、桟瓦葺、仏殿形式、十一面観音を祀る。堂周囲は、外廻りに面取角柱を立て、正面では中央柱間に両引き戸、両脇柱間に火頭窓、窓内側に両引き戸を入れ、内法長押を通し、柱上に舟肘木を載せ、一軒半繁垂木をみせる。両側面では柱間3間半に付鴨居・内法長押を通し、内法上に飾り貫をみせ、全面を白漆喰壁とするが、中央柱間の内法長押下に格子を付け、内側に引違障子を入れた窓を開けている。背面では柱間5間の中央に引違い戸を入れる。堂内部は一つの空間とし、床は全体を瓦四半敷として中央後方に2本の角柱、その前方に2本の丸柱を立て仏壇を造り、土間式の仏殿として簡潔にまとめている。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻139ページ