(ちょうしょうじほんどう)
【建築】
下山田代町(下山地区)。『下山村誌』によると、長禄から文明年間(1457~87)にかけて創立されたとされる。開基釈祐清は蓮如の教導を受けて得度し、蓮如より木像を下付され、田代に持ち帰り一宇の坊舎を建立したのが始まりである。現在の本堂は第6代祐善(天明6年・1786没)のときに再建されたものである。本堂は、桁行実長9間、梁間実長7間半、入母屋造、茅葺(瓦形銅板覆)、向拝1間付で南面する。間取りは、前半の間口7間、奥行2間半を外陣、その奥1間を矢来内とし、外陣の正側三方には擬宝珠高欄付の落縁を付け、正面中央には向拝と木階4級を設ける。堂後半の中央には、間口3間の内陣、その両脇に間口2間の余間を設け、ともに奥行3間とし、その内の背面半間に脇仏壇と余間仏壇を設ける。ただし、東余間では、内陣のように背面に脇仏壇を造り、半間手前に来迎柱と須弥壇を設けている。さらに余間の両脇には間口1間の飛檐の間を設け、堂背面には奥行1間の後堂を配する。内陣は来迎柱と須弥壇を用いる後門形式をとる。柱は内陣来迎柱と脇仏壇前2本と東余間来迎柱の6本を円柱とするほかは面取角柱である。床高は余間の床を上段、内陣を上々段とする。虹梁は、矢来内正面の柱間、外陣内梁行の柱間、脇仏壇・余間仏壇正面の柱間、来迎柱の柱間に渡され、矢来内正面と外陣内梁行および余間仏壇正面の虹梁上には蟇股を載せる。外陣外廻りは正面柱間に旧双折桟唐戸障子を入れる。内陣および余間正面は柱上と束上に出組斗栱を載せ、内法上に龍や鶴の高肉彫欄間を嵌め、柱間には内陣前に双折巻障子、余間前に旧千本障子を入れる。内陣廻りにも柱上に出組斗栱を配す。天井は、外陣を小組格天井、矢来内を鏡天井(龍の絵画)、余間を格天井、内陣を折上格天井とする。この堂を復原すると、側背三面の下屋部分がなくなり、内陣・余間は来迎柱による後門形式ではなく、内陣の脇仏壇と東余間仏壇が半間手前に出され、西余間仏壇と仏壇位置を揃えた通し仏壇の中央前に須弥壇を設けた形式であったと推察される。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻135ページ