町村合併

 

(ちょうそんがっぺい)

【近代】

明治以降、財政規模や行政効率の観点から町村の統廃合が繰り返された。戦前の愛知県では、明治22(1889)年と明治39年に大規模な町村合併が実施されている。明治22年の町村合併は、同年10月から施行される市制・町村制に先立ち、法律上の権利を執行し、義務を負担するだけの資力をもった町村を確立するために断行された。前年6月に知事は町村分合調査例を郡長に内訓し、現行の戸長役場所轄区域を基準に、300戸以上を標準とした町村の合併または分割編入を指示した。これにより、西加茂郡は143か村から30か村に、東加茂郡は167か村から18か村に再編された。碧海郡の高岡地区は竹村・若園村・駒場村・堤村、上郷地区は畝部村・寿恵野村・上野村・桝塚村・和会村となった。北設楽郡の稲武地区には武節村と稲橋村が成立した。額田郡の下山地区では、蘭村・蕪木村・田折村・田代村(昭和31年東加茂郡下山村)、保久村・富尾村・外山村・一色村・中伊村(同年額田町下山村)の9か村が合併して下山村を形成した。戦後に旭村と合併する岐阜県恵那郡野原村・浅谷村は横通村(現岐阜県恵那市)と明治23年に合併して三濃村となる。合併協議に際しては、地形的条件、人情・風俗などの生活習慣の違い、通学問題、役場位置を理由に対立が生じたところもあり、合併後に分村独立を願い出る地域もあった。18か村が合併して誕生した東加茂郡賀茂村は、明治26年2月に西部の越田和・林間・豊岡・久木・新盛・北小田・福知・千間および永野(大字玉野の内)が分離して新たに大和村を形成した。11か村が合併した東加茂郡阿摺村も、明治27年6月に北部の広岡・月原からなる阿摺村と、南部の白山・大塚・塩ノ沢・栃ノ沢・東中山・中立・摺・葛・大河原からなる瑞穂村に分離した。明治39年の合併は日露戦後の負担に耐えられるだけの町村を生み出すことを目的に愛知県が独自に実施した。当時、愛知県の町村数は全国最多であり、その過半は300戸未満の小町村であった。このため、およそ戸数1000、人口5000以上を標準とした町村合併を知事は訓示した。これにより、西加茂郡は挙母町・三好村・保見村・猿投村・石野村・藤岡村・小原村・高橋村の1町7か村、東加茂郡は足助町・盛岡村・松平村・賀茂村・阿摺村・旭村・下山村の1町6か村に再編された。碧海郡のうち市域にあたる地域は上郷村と高岡村となった。稲武地区の稲橋村と武節村は組合村を結成していたため、このときは合併をしなかった。両村が合併し稲武町が成立するのは昭和15(1940)年である。

『新修豊田市史』関係箇所:4巻186・380ページ、10巻60ページ、11巻2ページ