貯穀

 

(ちょこく)

【近世】

非常時を想定した減災対策として、天明の飢饉を機に、封建的社会政策の一環として村や地域の共同性や共助能力に依拠した備荒備蓄の取り組みが広がった。市域でも、天明8(1788)年に幕領村々で貯穀が開始されており、1人あたり稗5合のほか大根・蕪・芋葉などを囲い置く方式がとられていく。寛政元(1789)年、幕府は万石以上の大名に対し囲米を命じ、挙母藩でも、村々から提供させた冥加米を藩の蔵に貯蔵し、緊急時の御救手当に供する制度を導入したほか、村々の郷蔵には囲籾を置いて管理・更新を命じるなど、諸大名や旗本領にも確実な広がりをみせている。しかし、嘉永年間(1848~54)の稲橋村議定によると、危機意識が薄れ、貯穀の点検・更新を怠ったため、天保4(1833)年の飢饉時には貯穀は劣化し食用不能となっていた。これに対し、安政4(1857)年には、赤坂役所から貯穀の心得方として三か条の教諭書が出されている。このような動きとリンクする形で、幕末期、中泉代官所管内には、郡中惣取締を兼帯する宿村役人層から、稲橋村名主の古橋源六郎暉皃など24人が「貯穀取締世話役」となっている。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻474ページ