辻守貞  1751~1805

 

(つじもりさだ)

【近世】

天明の飢饉で疲弊した農村復興を課題とした寛政改革期、赤坂代官となったのが辻甚太郎守貞である。守貞は、疲弊した東海道宿駅の財政改革を実施したことで知られるが、農政面では、寛政5(1793)年8月、名主給を村方から支給して適任者を名主に選任することや、適任者不在の場合は組合村や近村から兼帯名主を願い出るよう触れ出すなど、組合村や郡中などの地域的結びつきを前提に、崩れつつある村政の再建を目指した。また、翌6年2月には、村内紛争回避のため村入用経費の可視化を求め、神事祭礼や勧化奉加の算入禁止のほか、困窮者への逆累進性を高める家割でなく高割を重視するよう、村入用の負担方法にも言及している。あわせて、村入用負担から村役人の持高を除外する優遇策を制限し、名主・組頭の給与確保を再令している。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻508ページ