(つづらさわのれんべんもんこ)
【考古】
昭和34(1959)年頃、本多静雄(豊田市名誉市民)が足助地区葛沢町の旧家から譲り受けた黒色の壺。口頸部を欠き、現存高39cm・胴部径40cmで、市指定文化財。肩部に仏教の蓮弁文を想起させる文様があり、当時は類品がなかったため、本多は「黒い壺」と命名して生産地探しに奔走した。やがて渥美窯で同類の壺が焼成されていることが判明したため、渥美窯の再評価をもたらした壺として著名となった。刻文壺とも呼ばれ、壺の文様を分析した楢崎彰一は渥美三筋文陶器編年Ⅳ期(平安時代末 12世紀第3四半期)に位置付けた。焼成・色調は足助地区の塩狭間窯跡の蓮弁文壺と類似するが、下胴部外面の斜めハケ調整および内面のハケ調整は、同時期の渥美窯・中世猿投窯などで生産された中世陶器には類例がみられない調整手法である。
『新修豊田市史』関係箇所:20巻466・556ページ