(てらうちゆうま)
【近代】
嘉永元(1848)年8月9日、加賀金沢に金沢藩士福岡栄八・せんの長男として生まれる。慶応元(1865)年3月、挙母村寺内九郎兵衛の没後に養子として寺内家に入る。愛知県警部補、碧海郡知立警察署長、愛知県警察部警部、熱田警察署署長などを歴任したのち、海西郡長に転じ、のち西春日井郡長に任じられた。日露戦争終結後の明治39(1906)年5月に西加茂郡長に就任し、明治41年7月まで務めた。大正2(1913)年2月には宇佐美喜太郎の辞任に伴って挙母町長に就き、大正11年3月までその任に当たった。町長在任中の大正7年4月に、役場の職員が給与の増額を求めた陳情を断固として拒否したため全職員が総辞職するという事態が生じた。また同年7月の米騒動の影響が挙母町にも及んだ際には町民代表と米価調整に関わる話し合いを行い、翌年には町民の公徳心、公共心を向上させる一助として桜城址に挙母町立公会堂を建設することを建議している。大正13年5月に改めて挙母町長の任に就いたが、在任中の大正14年7月30日に76歳で死去した。その死後、『三河挙母七州城沿革史』の著者渡辺善次は寺内をして常人がなし得ないことをなす非凡の人物であったと評している。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻401ページ