寺部遺跡

 

(てらべいせき)

【考古】

高橋地区寺部町に所在する縄文時代~江戸時代の遺跡で、矢作川左岸沿いの低位段丘面とその南の埋没段丘傾斜面から沖積低地にかけて広がっている。土地区画整理事業に伴い、平成19(2007)年の試掘調査以降、令和2(2020)年度までに52,000m2に及ぶ発掘調査が行われた。縄文時代では早期~晩期の石器・土器が出土し、遺跡北西部の調査区からは土坑・ピット群が検出されていて、周辺に晩期初頭~中頃の墓域があった可能性が指摘されている。南側の沖積低地では自然流路と堅果類の貯蔵穴62基が検出され、堅果類の放射性炭素(14C)年代測定法によって貯蔵穴は後期前葉を中心に中期末~晩期末の長期間にわたることが明らかにされた。貯蔵穴からはドングリ類を中心にオニグルミやトチノミ・クリ等が出土し、周辺からは堅果類の加工に使われた石皿等の大形礫石器も発見されていて、縄文時代の植生や植物性食料の一端がわかる好資料となっている。このほかに網代や赤彩漆塗櫛等の植物質遺物も発見されている。弥生時代中期中葉になると、台地上に溝2条が平行して掘削されるが、これは集落の中の居住域と墓域を区画する溝と推定されている。土器にはこの時期の瓜郷式土器を中心に、尾張系や美濃系、遠江系の土器が少量混じっている。また、石器も近畿地方で産出するサヌカイト製の打製石剣が出土していて、周辺地域や遠隔地との交流があったことをうかがわせている。弥生時代後期~古墳時代の遺構は竪穴建物跡2基と土坑等が検出されている程度であるが、古墳時代の土坑から石製模造品、また沖積低地の自然流路からは流れ込んだとみられる古墳時代前期の木製農具、前期~後期の土師器や須恵器が出土している。古代になると段丘面上に竪穴建物と掘立柱建物・高床倉庫が建ち並ぶ集落が営まれ、遺跡の北西側には、7世紀末頃の造営と目される勧学院文護寺の伽藍が及んでいたと考えられている。一方、南側の沖積低地には9世紀初め頃自然流路の水を堤防を築くことによって溜池が造られて、木樋で水位を調整する大規模な灌漑工事が行われている(写真)。溜池からは建築部材や木製農具、池の周辺からは祭祀に使われたとみられる墨書土器が出土している。墨書土器の中には、「加弥」と記されたものがあり、遺跡近隣の郷名を示している可能性がある。古代の本遺跡は、寺院造営やかんがい事業に強く関与していたと考えられる。中世以降も掘立柱建物と井戸からなる集落が営まれ、中世の軒丸瓦と軒平瓦、低地の井戸の周辺からは「寺」と墨書された山茶碗が出土している。江戸時代には、旧寺部城跡には尾張藩の重臣渡辺家の寺部陣屋が設けられ、その東側には「御家中」屋敷が配されるとともに、陣屋と「御家中」屋敷の南側には西町・本町・新町・田町などの「陣屋」町が形成された。そのため寺部遺跡北部の発掘調査では、陣屋町に関連する遺構・遺物が検出され、その様相が次第に明らかにされつつある。


『新修豊田市史』関係箇所:1巻72・86・106・118・157・161・164・183ページ、2巻57・75・106・110・113・123ページ、18巻56ページ、19巻138ページ

→ 漆製品賀弥郷勧学院文護寺跡石製模造品打製石剣貯蔵穴寺部陣屋墨書土器焼塩壺