寺部城跡

 

(てらべじょうあと)

【考古】

高橋地区寺部町1丁目に所在する中世城館や近世の寺部陣屋などが置かれた遺跡。北東から南西方向へと流下する矢作川左岸の南東から突き出た低位段丘面(籠川面)の先端部に築かれている。遺跡は、国人鈴木氏等の居城であった中世城館の時代から尾張藩重臣渡辺家の寺部陣屋としての近世城郭の時代を経て、幕末まで存続した。寺部城・寺部陣屋に関連する遺跡の範囲は、次の3つの埋蔵文化財包蔵地で構成されている。①北西部の寺部陣屋の主郭・二の郭・三の郭部分は寺部城(寺部陣屋)跡、②その東側に隣接する家臣の武家屋敷部分を中心とする地区は寺部城関連遺跡、③これらの南側で「陣屋町」が広がる町屋部分の寺部遺跡。なお、これらの東側にある一段高い下位段丘面(越戸面)上には近世渡辺家墓所がある守綱寺や八幡宮が所在し、これらを含めた範囲も関連遺跡として捉えられている。「陣屋町」は、足助方面へと続く善光寺街道や藤岡方面に向かう柿野道の分岐点ともなっており、7世紀末頃創建の勧学院文護寺の跡地には、鈴木重時が長享2(1488)年に寺院を建立したとされ、近世には渡辺家3代までの夫人等の菩提所となった隨應院が建っている。寺部城(寺部陣屋)跡の主要部分は、平成20(2008)年に「寺部城跡」として市指定史跡となった。また、寺部城跡の昭和54(1979)年の発掘調査では、縄文時代早期の土器をはじめ後・晩期の土器、土製品(土偶・耳飾)、石製品(石棒・石刀)等がまとまって出土し、晩期前半の土壙や古墳時代前期の竪穴建物跡などが検出されている。遺跡範囲の中でも、中世城館の主郭とみられる小高い北西端部の大半は、市史跡の範囲で発掘調査が行われていないため、中世の寺部城跡に関する考古学的情報が少ない。しかし、東端部で多量の土師器皿が廃棄された15世紀代の土坑が検出されており、饗宴等を伴った武家の儀礼が主郭内で行われていたのではないかと推測されている。主郭部分東側の二の郭とみられる部分では、昭和54年に約4800m2の発掘調査が行われ、井戸や一部に円礫を敷きつめた苑地状遺構が検出され16世紀前半の土師器が出土している。近世寺部陣屋の遺構については、江戸時代の「三州寺部御城内表御門内略図」にあるような主郭や、その東の堀を隔てた二の郭、主郭・二の郭南の三の郭などからなる小規模な城郭構造の様子が、これまでに行われた断片的な発掘調査からも確認されている。昭和54年の発掘調査では、二の郭部分において中世から続く箱堀形状の内堀や2基の井戸等が検出されている(写真)。「略図」では、各郭の塁線の随所に「折れ」がみられ、二の郭東の表御門と三の郭西の裏御門には内枡形、主郭南東の内御門には馬出様の施設が確認される。主郭の中央には、3つの中庭を挟んで4棟以上の建造物やその周囲を囲む蔵・倉庫が描かれている。幕末以降も、中央に陣屋主屋、南東側に長屋門や年貢米物置、主屋北側に中庭があり、中庭の西には奥座敷と茶室、北には2棟の土蔵がみられた。しかし、建物は昭和51年に取り壊され、現在はそれらの建造物の礎石等の一部が露出している。


『新修豊田市史』関係箇所:2巻555ページ、3巻138ページ、20巻298ページ