(てらべじょうかんれんいせき)
【考古】
高橋地区の寺部町1・2丁目に所在する中世の寺部城跡と近世の寺部陣屋に関連する遺跡で、矢作川左岸に突き出た低位段丘面(籠川面)上に立地している。中世城館の寺部城跡・近世寺部陣屋跡の東側に位置し、近世においては「御家中」屋敷と呼ばれる渡辺家の家老等の武家屋敷が立ち並んでいたとされる。中世寺部城跡に関連する顕著な遺構は、これまでの発掘調査では遺跡範囲の西端付近において、15世紀後葉~16世紀前葉の陶磁器を伴った幅2mほどの南北方向の区画溝がみられたのみである。このため、城跡の範囲はより西側に限られるとみられ、近世には2本の東西方向の道路沿いに武家屋敷が立ち並んでいた状況がうかがわれる。平成5(1993)年には幕末以降も残されてきた大澤家(家老)、遊佐家(普請奉行)、松本家(家老)の建物配置が図上復元されており、発掘調査でも復元図に合う屋敷区画溝等が検出されている。遊佐家西側の区画溝とみられる遺構からは18世紀を中心に17~19世紀の遺物が出土しており、17世紀代には屋敷地の形成が始まっていたことが明らかとなった。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻138ページ、20巻298ページ