天神前遺跡

 

(てんじんまえいせき)

【考古】

本遺跡は、上郷地区鴛鴨町の沖積低地微高地に所在する古墳時代中期と奈良時代~戦国期の集落遺跡である。平成9(1997)・10年度に豊田東インターチェンジ建設に関連する国道248号改良工事に伴い発掘調査された。北東で水入遺跡、南西で郷上遺跡と接している。微高地上の調査区下面で古墳時代前期後半~中期の遺構・遺物が検出され、畦畔で区画された4世紀後半の水田遺構が18枚確認された(写真)。水田の規模は最大で9.0m×9.8m、最小で2.4m×3.6m、1枚当たりの面積は15~25m2と小規模なものであった。ただし、十分な量のプラント・オパールは検出されてはいない。この水田を壊して幅約10mの大溝が掘削されていて、溝は隣接する水入遺跡と郷上遺跡の大溝とに連続し、大規模な灌漑用水路を構成していたと推測されている。5世紀前半代の竪穴建物跡が1基検出され、中央に築かれた地床炉からは獣骨片と土師器が出土している。この建物跡は5世紀中頃に洪水を受けており、それを受けて集落は他の場所に移動したとみられている。包含層からは5~6世紀の土師器・須恵器が出土しており、その中には韓式系土器の縄蓆文叩きの甕も含まれている。古代~戦国期の遺構・遺物の変遷は、概ね次のように辿られる。まず7世紀後半の竪穴建物跡1基、2本の溝に挟まれた7世紀以降の道路状遺構が検出されている。また、奈良時代の掘立柱建物内の土坑からは「牛養」と墨書された8世紀後葉の須恵器が出土し、平安時代の溝や平安時代末~鎌倉時代の井戸が検出されている。続いて、複数の掘立柱建物跡と小規模な溝群が検出された鎌倉・室町時代には、屋敷地と耕作地が営まれ、戦国期には建物が溝で囲まれた方形の屋敷地と小規模な溝群が築かれている。屋敷地は1辺20m弱の小規模な方形区画である。江戸時代の遺構は方形土坑群のみとなり、集落は認められなくなる。本遺跡は郷上遺跡を中心とする中世集落の北端部に隣接しているが、郷上遺跡よりも先に居住が始まり、先に衰退したとみられている。

資料提供者「(公財)愛知県教育・スポーツ振興財団愛知県埋蔵文化財センター」

『新修豊田市史』関係箇所:1巻283ページ、19巻276ページ