東海豪雨

 

(とうかいごうう)

【自然】

平成12(2000)年の東海豪雨は、熱帯低気圧から変わった台風が秋雨前線を刺激したもので、台風を取り巻くスパイラルバンドと北太平洋高気圧からの南東風が収束して線状降水帯を形成し、逆V字型の伊勢湾に積乱雲を次々と送り込んだからである。したがって、高気圧の張り出し位置が東海地方に豪雨災害をもたらしたのである。台風が秋雨前線を刺激して局地豪雨をもたらす年は残暑が厳しい年が多く、近年の猛暑と無関係ではない。

被害 平成12(2000)年9月11日夕刻から12日未明にかけて発生した東海豪雨において、愛知・岐阜・三重を中心に記録的な集中豪雨に見舞われた。これにより、愛知県全域で死者7人、家屋全壊18棟、半壊156棟、床上浸水2万2077棟、床下浸水4万401棟、土木施設被害1333か所、愛知県の水害区域面積1万476.6haという多大な被害が発生した。特に名古屋市・西枇杷島町(現清須市)、新川町(現清須市)などを流れる新川が破堤し広範囲に氾濫・浸水域が広がったほか、名古屋市を流れる天白川の下流域でも氾濫が起こり、地下鉄桜通線の野並駅が浸水するなど大きな被害が出た。市域においても矢作川からの溢水などによって浸水や冠水が起こり(写真上:矢作川の氾濫による道路冠水 西広瀬町)、被害は広範囲にわたった。また市内各地を流れる河川が氾濫したほか、上流域の山間地域から多数の流木が矢作川に流れ込み、矢作ダムは大量の流木に一面が覆われた。旧豊田市では11日の午前2時頃から翌12日の午前7時頃まで雨が降り、北西部の大畑小学校では時間雨量91mmを記録、さらに南西部の駒場小学校では11・12日の両日で総雨量が493mm余りに達した。これは昭和47年7月豪雨の雨量を上回るものであった。旧豊田市内で特に被害が大きかった矢作川沿いの石野地区藤沢町では、12日午前5時30分頃には県道付近がすでに冠水しており、車が水に浮いていたほか、住宅の浸水、停電、電話の不通等が発生した(写真下:崩落した富国橋)。旧豊田市における被害は死者1人、住家半壊5棟、床上浸水192棟、床下浸水369棟を数えた。また河川の破堤1か所、越水51か所、法面崩壊等その他40か所の被害が発生した。旧稲武町では5地区60人に避難勧告が出され、2か所で橋が流失、通行不能道路も10か所におよび、電話は80回線が不通、停電も80戸にのぼった。被害は重傷者1人、住家全壊4棟、半壊6棟、床上浸水26棟、床下浸水65棟、法面崩壊等その他41か所に及んだ。旧旭町では土石流が発生したほか、小渡幼稚園と児童館が完全に流失し、同じ敷地内にある小渡小学校と体育館も床上浸水した。そのほか住家一部損壊2棟、床上浸水11棟、床下浸水21棟、法面崩壊等その他82か所の被害が発生した。旧足助町では住家半壊1棟、一部損壊6棟、床上浸水13棟、床下浸水25棟、法面崩壊等その他170か所の被害が発生し、旧下山村では2棟が一部損壊した。また、旧下山村・旧藤岡町・旧小原村で床上浸水がそれぞれ2棟・0棟・1棟、床下浸水がそれぞれ6棟・1棟・6棟であったほか、法面崩壊等その他の被害が旧藤岡町で25か所、旧小原村で5か所発生した。市域全体でみた矢作川流域における被害の状況は次の通りである。矢作ダムを挟んで上流域では山地斜面崩壊を伴う土石流の発生などによって家屋損壊が多く、下流域では著しい降水のためにダムの治水管理限界を超えた放水作業を余儀なくされたため、浸水被害が顕著であった。


『新修豊田市史』関係箇所:5巻534ページ、23巻167・181・251・265・644・655ページ

【現代】

東海豪雨の際、矢作ダムはそれまで経験したことのない事態に見舞われていた。流域の観測所の多くで日雨量が過去最高を記録しており、ダムは膨大な流入量を一時的に貯水して大量の土砂や流木を抑制しつづけたが、ついに限界に達したため、初の非常用ゲート操作で下流への放流を開始した。被災後、この対応に当時の豊田市・旭町・小原村・足助町・藤岡町の矢作川周辺5市町村から、今後、管理体系の再検討と適切な防災措置の実施、安全対策の構築を行うよう要望書が出されることになる。一方、伊勢湾台風の襲来や昭和47年7月豪雨の際と同様に、東海豪雨に見舞われた後も、災害の記憶を継承しようという動きが見られた。まず平成14(2002)年6月に豊田市矢作川研究所から『東海豪雨 矢作川流域・記憶と記録』が刊行され、東海豪雨が気象条件や森林の構造、聞き取り調査や生物に関する記録などから分析された。次いで平成15年3月に愛知県豊田加茂建設事務所から発行された『東海豪雨災害の記録』では、同事務所が管轄する現在の市域と当時の三好町(現みよし市)の被災状況が写真入りで克明に記録され、復旧状況についても多くの頁が割かれた。さらに市域の記録に限らないが、東海豪雨から10年を経た平成22年7月に刊行された『忘れない、東海豪雨 東海豪雨から10年』では東海豪雨が歴史的に振り返られ、大都市における水害への備えのもろさや中山間地域の孤立化などの問題が露呈され、その後の防災対策に大きな影響を及ぼすことになった災害として東海豪雨がはっきりと位置づけられている。

『新修豊田市史』関係箇所:5巻534ページ、14巻778ページ