(とうこういんほんどう・さんもん)
【建築】
寺部町(高橋地区)。寺は、儀鱗山東高院と号し、浄土宗に属する。長承3(1134)年に不動堂村(現上野町)の寺部八幡社の前身となる神社の神宮寺として創建され、儀鱗寺と称し、その後、矢作川の水害を避けて現在地に移り、永禄元(1558)年に儀鱗山東高院と寺号を改めて開基し、隨應院の末寺となった。本堂は明和9(1772)年に再建した。本堂(写真)は桁行3間(実長5間)、梁間5間(実長5間)、寄棟造、桟瓦葺、南面して建つ。軒は二軒疎垂木で、正面に一間向拝と木階2級・石階一級を付し、背面には下屋庇を増築している。間取りは、堂前端の間口3間(実長5間)、奥行1間を広縁とし、その後方の奥行2間を外陣とする。外陣後方中央に間口3間、奥行2間半の内陣を配し、その両脇の間口1間を脇の間とする。内陣後方には現在、奥行1間半の後堂を付し、その西には物置を増築している。正面および西側面には濡縁を付す。向拝の柱は上下に粽を付した几帳面取角柱で、礎石・石製礎盤上に立つ。柱間には頭貫虹梁を通して端に象鼻を出す。柱上には出三斗(端部連三斗)を載せ、中備に蟇股を配す。主屋との間には繋海老虹梁を渡す。本堂は新材も多く旧態を明らかにすることは困難であるが、床の間を備えた方丈型の小堂であったと推察される。山門は一間薬医門で、屋根は切妻造、桟瓦葺、軒は一軒疎垂木とする。主柱は長方形断面の互平柱で礎石上に立ち、柱間に楣を通し、柱上に冠木長押を載せる。蹴放は無いが痕跡は残る。扉は桟唐戸を主柱に肘金具で吊る。建立年代は不詳であるが、本堂と大差ない時期の江戸時代中期頃の造営と推察される。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻25ページ