洞泉寺山門・鐘楼・観音堂

 

(とうせんじさんもん・しょうろう・かんのんどう)

【建築】

小坂町(挙母地区)。寺は、霞渓山紫雲院洞泉寺と号し、浄土宗総本山知恩院直末の寺院である。創建は古く、鎌倉時代末期の正和2(1313)年といい、上伊保(現保見町)に法相宗の寺として開創され、後に天台宗に改め、宝徳元(1449)年に浄土宗に改めたという。万治3(1660)年に挙母蔵前(現桜町付近)に寺地を移し、寛延2(1749)年に内藤家が入封すると当寺を菩提寺とした。しかし、水害に悩まされ、現在の寺地を内藤学文から賜り、天明3(1783)年に移転した。天明4年に本堂を再建、翌年に庫裏も再建したが昭和に建替えられ、享和2(1802)年に鐘楼・山門が造営された。観音堂は元文(1739)4年の建立とされるので、旧地から移築されたものと考えられる。山門(写真)は一間一戸の楼門、入母屋造、本瓦葺、二軒繁垂木、妻飾は前包に角束を立て扠首を組み、束上に大斗実肘木を置いて化粧棟木を受ける。両脇の母屋は前包上に直接大斗実肘木を置いて受ける。破風の拝みは蕪懸魚鰭付を吊る。主柱は几帳面取角柱、礎石に立ち、上層の床下までの高さとし、控柱は粽を付けた几帳面取角柱、礎石・石製礎盤上に内転びに立ち、上層まで延びる通し柱とする。下層の主柱間には楣を通し、柱に方立と蹴放の痕跡があるので扉が吊られていたと考えられる。控柱間には頭貫虹梁を渡し、下方を開放する。主柱と控柱の間は腰貫・飛貫・頭貫を通して固める。上層は四面とも柱間を1間、各柱間に敷居と頭貫・台輪、頭貫端を木鼻として出す。柱上には拳鼻・実肘木付の出組斗栱を載せ、中備には同様の斗栱を二基配して詰組とする。正面の柱間には両脇を継板壁とし、双折桟唐戸を吊る。内部背面に奥行半間の仏壇を設け、拭板敷き、棹縁天井とする。四周に切目縁を廻らし、逆蓮頭の高欄を付す。東縁に二階への昇り口、梯子を付す。鐘楼は、乱石積みの基壇上に棟を東西に建つ。桁行・梁行1間、入母屋造、本瓦葺、一軒本繁垂木とする。妻飾は前包中央に蟇股、両脇に大斗実肘木、その上に虹梁、中央に大瓶束笈形付を載せ、束上に大斗実肘木を置いて化粧棟木を受ける。破風の拝みには蕪懸魚を吊る。主柱は粽付面取角柱、礎石上に内転びに立つ。主柱の脇には粽付面取角柱の脇柱を立てる。柱間は腰貫・飛貫・頭貫を通し、柱上に台輪、頭貫端は木鼻を出す。柱上には実肘木付の出三斗を載せ、中備には蟇股を配す。観音堂は、桁行5間(実長2間半)、梁間3間(実長2間)、正面入母屋造、背面切妻造、妻入の堂で、東に面して建つ。桟瓦葺、一軒疎垂木、正面に一間向拝付とする。妻面および垂木より下部の四周の外壁は漆喰で塗籠めの土蔵造。向拝の柱は粽付面取角柱で、礎石上に立ち、柱間に頭貫虹梁を渡して端に木鼻を出す。柱上には拳鼻・実肘木付平三斗を載せ、中備に蟇股を置く。堂内は真壁造、堂内の背面には奥行2間(実長1間)の仏壇を設け、仏壇正面の柱間には内法虹梁を渡し、虹梁端を挿肘木で支える。仏壇上の厨子は宮殿型とし、様式は江戸時代中期のものと推定される。

『新修豊田市史』関係箇所:22巻20ページ