銅鐸

 

(どうたく)

【考古】

弥生時代に使用された祭祀用の青銅器。市域では高橋地区の手呂町樋田から出土した手呂銅鐸が1点あるのみである。全国的には近畿地方を中心に福岡県から長野県辺りにまで分布し、県内では破片と小銅鐸を含め現存するものだけでも尾張で10点、三河で21点の出土が知られる。銅鐸は人里離れた場所から土器などの遺物を伴わないかたちで発見される場合が多く、出土状況が不明のものや現物がなく出土したと記録されているのみの銅鐸もあるため、埋納時期や具体的な用いられ方についてはわからない点が多々ある。銅鐸の型式は、鈕の部分の変化に基づき最古段階の菱環鈕式、古段階の外縁鈕式、中段階の扁平鈕式、新段階の突線鈕式の4型式に分類され、さらに外縁付鈕式と扁平鈕式はそれぞれ1・2式、突線鈕式は1~5式に細分されている。また突線鈕2~4式段階になると、近畿式と三遠式に分けられる銅鐸が現れる。総高97.7cmで重量約20kgもある大型の手呂銅鐸(写真)は突線鈕式3式の三遠式銅鐸に分類される。鈕の部分に飾耳が無く、鰭の外周を巡る突線と身の区画線は太く、小判形をした鈕の文様帯に内向鋸歯文、菱環帯に綾杉文、鈕孔に面する内縁には重弧文が配されている。身の部分は6区袈裟襷文で区画され、横の区画突線は縦線よりも強くて鰭まで貫いている。身の裾の内側を巡る幅広の内面突帯には音を鳴らすために叩かれた形跡は認められていない。発見時に片側の鰭の大部分がブルドーザーで削り取られたことにより、手呂銅鐸は鰭の部分を上下にして横向きに寝かせた格好で埋められていたことが分かった。これは通有の埋納形態である。一方のブルドーザーが削り取らなかった側の鰭の下端と裾の一部が欠損している点も注意される。新段階の銅鐸の中には、田原市椛銅鐸のようにバラバラに割られた銅鐸や近畿式銅鐸の鈕の飾耳のみが発見されるいわゆる破壊銅鐸がある。手呂銅鐸も銅鐸祭祀が終わった段階で一部が意図的に打ち欠かされた後に埋納された可能性がある。また、銅鐸本体は発見されていないが、銅鐸祭祀に関連する遺物が高橋地区岩長遺跡と上郷地区川原遺跡から出土している。岩長遺跡では銅鐸の形を模した銅鐸形土製品が1点、川原遺跡では銅鐸の舌とみられる残存長5.3cmの石製品と銅鐸形土製品が5点みられる。銅鐸形土製品は銅鐸の実物を見ない限り作ることができないもので、川原遺跡の5点は県内では清須市ほか所在の朝日遺跡の18点に次ぐ多さである。川原遺跡の石製舌は、上端に空けられた小さな孔に紐を通して銅鐸の舞の部分の型持孔から吊り下げて内面突帯に打ちつけて音を鳴らしたとみられるもので、叩打による摩耗痕が認められる。岩長遺跡、川原遺跡が祀っていた銅鐸はどこにあるのか、手呂銅鐸を祀っていた集落はどこであるのか、銅鐸をめぐる謎は多い。


『新修豊田市史』関係箇所:1巻195・211ページ、19巻76・796ページ

→ 川原遺跡手呂銅鐸出土地