(どうどいけしたこふん)
【考古】
矢作川左岸の高橋地区百々町の段丘斜面鞍部にあった中期古墳。南0.1kmには三角縁神獣鏡を出土した百々古墳推定地がある。小栗鉄次郎の記録によると、明治36(1903)年頃の平井村役場建設の際に「石槨」が破壊され、「鐵鎧」「齊瓮」が出土したとされる。「齊瓮」については須恵器広口壺のスケッチが残るため5世紀後半の資料と推定され、「鐵鎧」はその頃に盛行した鋲留の帯金式短甲であった可能性が高い。古墳時代中期における甲冑の配布には、ヤマト政権が積極的に関与していたとみられ、西三河では伝岡崎市出土の甲冑が知られるのみである。被葬者はこうした武具を入手できた有力首長であったと考えられる。
『新修豊田市史』関係箇所:1巻316ページ、19巻592ページ