土器埋設遺構

 

(どきまいせついこう)

【考古】

土器が意図的に埋められている遺構全般を指す名称であるが、一般的には炉跡内や炉跡に附属する土器埋納炉跡以外の遺構のことをいう。このような遺構については、縄文・弥生時代を中心に、埋甕・埋設土器・土器棺墓などの名称が用いられることがあり、多くの場合は墓などの埋葬遺構の棺ではないかと想定されている。埋甕は、縄文時代中期を中心に東日本で盛行した風習で、土器が竪穴建物の入り口付近の床面に掘り込んだ坑の中に立位あるいは逆位の状態で埋設された遺構である。市内では、上郷地区の水入遺跡や高橋地区の曽根遺跡、足助地区の桑田和町北貝戸遺跡(写真)などで見つかっている。幼児・死産児の亡骸を土器に入れて埋めることで魂が再び母親の母体に戻ることを願う再生説と、幼児の胎盤などを入れて成長を祈願した胞衣の思想に基づくものという見解がある。埋甕の風習は、東海地域西部~西日本では縄文時代後期になっても認められているようであるが、竪穴建物跡との関連性が捉えられる場合が少ないため、単に埋設土器と呼称されることもある。一方、土器棺墓は屋外に土器を立位や横位・斜位の状態で埋設したものである。高橋地区の丸根遺跡などの縄文時代晩期の事例では、深鉢を棺として乳幼児を埋葬した遺構であることが知られている。弥生時代前期になると挙母地区の霊岩寺遺跡や高橋地区の京ヶ峰B遺跡、足助地区の今朝平遺跡・大屋敷遺跡・木用遺跡などのように、深鉢のみでなく大型の壺を棺の身として埋設していることもあり、これらは成人骨を再葬した棺であった可能性が高い。名古屋市熱田区の玉ノ井遺跡や田原市の吉胡貝塚などでは、貝塚から見つかった同遺構の棺内から埋葬人骨が出土し、棺内の埋葬形態や埋葬主体が明らかにされている。その後、土器棺墓は弥生時代中期以降も条痕系の深鉢や小型の壺を棺として継続したが、それらは乳幼児の埋葬遺構であった可能性がある。


『新修豊田市史』関係箇所:1巻122・161ページ、18巻72・98ページ、19巻111・188・356・362ページ