土偶

 

(どぐう)

【考古】

縄文時代のひとを象ったとされる土製品で、祭祀行為に用いられたと考えられている。土偶は、三重県度会町粥見井尻遺跡や滋賀県東近江市相谷熊原遺跡で最も古い草創期のものが出土し、その後も地域的・時期的に断絶や偏りがあるものの、縄文時代を通じて作られた。かたちによって、板状と人形(ひとがた)とに分けられる。人形土偶が自立するタイプの土偶であるのに対し、板状土偶はそれ自体では自立できず、壁立てや横置きして使用されたと考えられる。相谷熊原遺跡の事例を除き、縄文時代前期までは板状土偶が主体となっている。2000点以上も出土している青森市三内丸山遺跡の縄文時代中期の土偶は十字形をした板状土偶であるが、長野県などの縄文時代中期では人形土偶が出現し盛行するようになる。山梨県笛吹市の釈迦堂遺跡では1300点を超える土偶片が出土しており、それらは意図的に壊されるものとして作られたとする研究もある。列島規模で土偶が盛行するのは縄文時代後期以降である。瀬戸内・関西地域で出現した分銅形の板状土偶は、九州そして東海から東日本域へと広がったとされる。一方、東日本ではハート型土偶や山形土偶・ミミヅク土偶などの造形的にも素晴らしい特徴的な土偶が出現している。晩期になると、東日本の亀ヶ岡文化に伴って遮光器土偶が盛行した一方で、西日本では装飾が顕著ではない土偶が作られるようになる。これら土偶には、乳房や陰部の表現、さらには腹部が膨れたものや正中線の表現が認められるものもあり、女性でも特に妊娠状態の女性を表現しているものが多い。また、板状土偶と人形土偶とでは、出現と盛行の変遷が異なることから、土偶の背景にある祭祀内容が異なっていたのではないかという指摘もある。弥生時代になると、土偶は再葬による焼骨などを入れる容器形土偶へと変遷したとされる。市内では、旭地区の大砂遺跡や猿投地区の船塚遺跡で縄文時代中期の土偶が確認されている。縄文時代後期になると西尾市八王子貝塚で西日本系の独特な分銅形土偶が盛行し、これが高橋地区の寺部遺跡や足助地区木用遺跡など、市域へも広がりをみせた。一方、今朝平遺跡では東日本の山形土偶の影響を受けた独特な人形土偶が作られている(写真)。その特徴の一つに、顔表現をあえて行わないことがあり、顔面を表現することが社会的に忌避されていた可能性が高かったのではないかとする指摘もある。


『新修豊田市史』関係箇所:1巻134ページ、18巻409ページ