栃原遺跡

 

(とちはらいせき)

【考古】

高橋地区の東山町に所在する弥生時代後期~終末期の集落遺跡。標高68mの上位段丘面(挙母面)上に立地する。北側に市木川の開析谷が開け、15m下の下位段丘面(越戸面)上には、弥生時代~古墳時代の大規模集落である高橋遺跡や堂外戸遺跡が立地する。本遺跡では縄文時代~古墳時代の遺物・遺構が発見されており、縄文時代早期の炉跡と中期後葉の竪穴建物跡2基、弥生時代前期の土器棺1基が検出されているが、定住した様子はうかがえない。弥生時代後期初頭~終末期には集落が形成され、竪穴建物跡19基と時期不明の掘立柱建物跡6基が発見されている。居住域はさらに発掘調査の及んでいない南西方向に広がっていたと想定されている。居住域の北側には同時期の墓域が隣接して設置されており、区画溝によって居住域と墓域が整然と隔てられた集落の様相をよく伝えている。竪穴建物跡の年代が判っているものは、弥生時代後期初頭1基、後期6基、終末期4基である。建物跡に重複がみられることから、同じ場所で建て替えが行われており、居住に何らかの規制があったと考えられる。段丘の北側に設定された墓域からは、方形周溝墓14基が検出されている。北に突き出した尾根先端の1基が最も大きく、そのほかは1辺が10m前後のものと5m以下のものである。複数のグループに分かれ、いずれも整然と築かれている。小規模な周溝墓は墓域の一角に溝内埋葬や土器棺墓とともに集まっているため、未成人や小児の墓域があったと推定されている。区画溝は最大規模で幅2m、深さ1mを測り、110m以上続いている。溝は途中で居住域側へと張り出しており、底面近くから弥生時代後期の土器が少量、中位から上位で終末期の土器が多量に出土している。このためこの区画溝は、集落の始まりに近い時期に掘削され、終末期に機能を失ったと推測される。その後の遺構としては古墳時代中期末(5世紀後半)の竪穴建物跡が2基見つかっているが、集落全体の様相は明らかではない。


『新修豊田市史』関係箇所:1巻144・174・178・183・187・218・232・234・240ページ、19巻190ページ