土場

 

(どば)

【近世】

河川に設けられた物資を積み下ろす川湊のこと。流通の結節点となり、当地域においては土場と称することが多かった。舟運に適する河川は岩場が少なく、川底が浅くない流路で、急流でないことが条件であった。矢作川の場合、本流では挙母盆地から三河山地の入口にあたる越戸土場(猿投地区)と平井村古鼠土場(高橋地区)、支流巴川では、九久平土場と岩倉村平古土場(ともに松平地区)までが、舟運の上限であった。伊那街道や足助街道を利用する中馬や三州馬によって運ばれてきた信州荷や三河国山間部の物資はこれらの土場に集積され、問屋を通して船積みされ矢作川を下った。矢作川の越戸土場・古鼠土場は、中世より「平江港」と称され、物資集積地であったとされ、早くから成立していたことがうかがわれる。越戸土場は矢作川より西の美濃国境に至る山間部の村々の年貢米の集積地で、古鼠土場は少し下流の平井村百々土場とともに矢作川より東の村々の年貢米集積地であり、足助町や明川村周辺もその集積地に含まれていた。年貢米の集積以外にも、上流から川下しされる材木の綱場(頑丈な綱を張って木材をせき止めるところ)として筏に組む場所であり、下流からは上り荷物が集積された場所であった。問屋や商人としては越戸土場の岩井喜三八・問屋源兵衛、古鼠土場の古井彦惣・築山源之助、百々の今井善六などの名が挙げられる。矢作川には挙母城下町に隣接する挙母土場(八幡土場)もあり、挙母藩の廻米等を運び出していた。巴川にあった九久平土場は享保6(1721)年頃から薪炭切木の売買が始まり、家数の増加が目立ったという。その後も割木など材木類の集積地として賑わった。九久平の対岸に位置する岩倉村の平古土場(写真:現在の様子)は足助街道の難所である巴川の西の山あいの通路にアクセスできる場所で、下り荷は九久平・平古の両土場に着岸するが、足助方面に向かう荷物は平古土場に着岸して、三州馬稼ぎによって運ばれた。慶応4(1868)年には、九久平・平古土場で材木が両土場に同時に着いた場合は九久平土場の人足を1組出すこと、片方に着いた場合は人足を折半することや、賃銭の統一などの規定を設けている。両土場の不均衡の是正とともに、出人足の生活の維持をはかった規定であった。平古土場には問屋の礒谷仁右衛門がいて、九久平土場には割木問屋があった。矢作川河口付近には平坂(西尾市)・鷲塚・大浜(ともに碧南市)などの湊があり、その間には東海道の宿場であった岡崎城下の土場である八丁土場(岡崎市)、西尾城下町の土場である新河場土場(西尾市)があった。そのほかにも矢作川沿いには多くの土場が存在し、平坂・鷲塚・大浜の湊からは、越戸や巴川の九久平などの土場まで川舟が遡上して物資を運んだ。荷揚げされた物資は土場の問屋を通して各地に人馬で運ばれた。これらの土場と河口の湊の荷物は矢作川下流域沿いの中畑・田貫・米津(いずれも西尾市)や藤井(安城市)・鷲塚の村々に住む船頭によって運ばれた。


『新修豊田市史』関係箇所:3巻427ページ

【民俗】〈環境〉

物流の中継施設をドバ(土場)といい、昭和の頃まではさまざまな形態があった。市域では産物を1か所に集めて荷車などに積み替える場所、山で伐採した竹木を河原で筏に組む場所、川船が着岸して船荷を揚げ下ろしする船着き場、揚げ下ろしをする船荷を船着き場近くで一時保管する倉庫など、いずれもドバ(土場)と呼んでいた。山から産出された木材、薪炭、石材、磨き砂、窯業原料となるサバ土や陶土などは麓の土場に集められた。こうした土場の場所は、産物を荷車などへ積み替えるため、林道脇のやや広い平坦地が選ばれた。平坦地がない場合には斜面を削って土場を作った。土場に産物が下ろされると、ヒヨカタ(日傭方)の親方が分別整理をし、荷車などに積んで市場や工場、問屋まで運んだ。そこに運ばれてきた荷の一時保管場所があれば、そこも土場といった。木材や竹を筏に組む土場はイカダドバ(筏土場)とも呼ばれた。筏土場は、クダナガシ(管流し)やセギダシ(堰出し)で流されてきた木材を回収して陸揚げし、竹とともに一時保管する河原と、筏を組み立てる岸辺からなっていた。河原も筏を組む岸辺も、平坦で流れの緩やかな場所が選ばれた。荷船が着岸できる川湊(船着き場)も土場と呼ばれ、荷揚げ場と荷積み場があった。船が着岸する日には船乗りや日傭方、荷受け人などがてきぱきと仕事をこなし、集荷、配送する荷車曳きや駄賃付けの馬方も来て賑わった。こうした運送関係者を差配するのが回漕問屋で、土場近くに船荷を一時保管する倉庫を持っており、これをトンヤドバ(問屋土場)といった。矢作川の越戸土場(猿投地区)では、土場に下ろされた船荷は荷車に積まれ、切り通しになっていた堤防道を越えて集落内にある問屋土場に運ばれた。この切り通しには板をはめ込む枠が設けられていて豪雨などで矢作川が増水すると板をはめ込んで、濁流が集落に流れ込むのを防いだ。越戸では2軒の回漕問屋が問屋土場を持っていて、いずれも商売をする店が花本(猿投地区)にあった。矢作川や巴川の土場に荷船が着岸していたのは昭和5(1930)年頃までのことであったが、産物の集積場所は今も土場と呼ばれることがある。〈環境〉

『新修豊田市史』関係箇所:15巻77ページ、16巻28ページ、17巻249ページ

→ 川湊