(ともえがわつうせんけいかく)
【近世】
天保12(1841)年6月に滝脇役所旗本松平数馬知行所羽明村(松平地区)の名主河合全右衛門が巴川(足助川)の開削を幕府に願い出た計画。開削場所は九久平村(松平地区)から足助村までの約4里(約16km)で、九久平より上流の巴川は両岸が急峻な山の斜面、川中は岩場のためそれまで通船は不可能であった。巴川は小川筋とも称していたので、この計画を小川筋通船計画ともいう。願書内容では九久平止りであった巴川の舟運が足助まで延長となることで流通の便が良くなり、「国中之益筋」となるとし、許可の上は自普請で開削し、冥加御運上永の上納を行うとした。同年に足助の合意があり、7年後の弘化5(1848)年に幕府役人の見分、翌年には陸路の運搬をする馬稼ぎの合意を得ている。しかし、計画実施には至らなかった。現在でも川中の岩には試作と思われるくさびを打ち込んだ跡が残っている。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻452ページ