トヨタ自工の労働争議

 

(トヨタじこうのろうどうそうぎ)

【現代】

昭和24(1949)年から25年にかけてトヨタ自動車工業株式会社(トヨタ自工)で起こった労働争議。昭和24年からのドッジ・ライン(財政・金融引き締め策)を受け自動車業界ではいすゞ自動車の人員整理や日産自動車の合理化が推し進められる。トヨタ自工の労働組合も4月29日に発足以来はじめてのストライキを行い、7月には人員整理を行わないよう会社に申し入れた。賃金の遅配が進むと、8月に準闘争体制に入る。12月には労使間で、1割の賃下げを認めるかわりに人員整理は行わないことや、今後の賃金を所定日払いとすることを内容とする覚書が締結された。一方、会社側は2億円の越年資金の調達に奔走しており、昭和25年1月、日本銀行名古屋支店を中心とする再建案として、①販売会社を分離独立させる、②トヨタは当面、販売会社が売れる台数だけ製造を行う、③過剰人員の整理、などが提示された。会社側は蒲田・芝浦の両工場を閉鎖し、本社従業員1600人の人員整理と1割の賃下げを決定。4月7日、組合は会社に争議行為通知書を発し本格的な闘争体制に入った。11日には24時間ストライキに入り、15日の第4回団体交渉ごろから人員整理に関する応酬がはじまっていく。22日の8回目の団体交渉で、常務取締役の大野修司が、本社在籍人員から1600人の希望退職者の募集、残留者の10%賃下げ、蒲田・芝浦両工場の閉鎖などを会社再建案として発表した。対する組合側は人員縮小による少量生産がコストの割高を招くことを理由に抵抗し、24日に人員整理を回避するための独自の再建案を発表。また昭和24年暮れの覚書を根拠に、人員整理の無効を名古屋地裁に訴えた。結局、覚書の効力は裁判で否定され組合側が敗訴。組合側は出荷拒否や社宅の家族ぐるみ闘争などを進めていく。人員整理の発表以降、数回にわたる全面ストライキ・職場での部長や工場長に対する突き上げ・執行部のハンガーストライキなども展開。GHQ東海北陸地方民事部のウォーカー労働課長がストライキの中止を勧告する場面もみられた。会社側は整理対象外の従業員に身分保障をうたう手紙を郵送し、組合を分断する作戦に出る。従業員のなかには会社再建案へ賛成する者が出てきた。争議を批判する者もあらわれ、組合員としての権利の停止処分を組合側から受けた者もいる。6月5日、取締役社長・豊田喜一郎、取締役副社長・隈部一雄、常務取締役・西村小八郎が経営上の責任をとり退任。豊田の後任には株式会社豊田自動織機製作所の取締役社長・石田退三が就任した。8日からの団体交渉で会社側は、退職者を1600人とすることが会社再建の唯一の方法と訴えている。協議の中心は徐々に争議中の賃金、希望退職者の再就職、事態好転の際の再雇用など、争議解決後の問題に移行していく。9日に組合側は会社再建案を受け入れ、10日に再建案に基づく覚書に調印し争議は終結。蒲田・芝浦両工場の閉鎖、残留者の1割賃下げなどが決定した。


『新修豊田市史』関係箇所:5巻110ページ

→ 豊田喜一郎トヨタ自動車