豊田市水質調査会

 

(とよたしすいしつちょうさかい)

【現代】

全市民的な公害追放運動を目標に掲げて昭和45(1970)年発足。市内在住の若者で組織。会長の小林収は、矢作川上流の山砂利採取によるアユの発育不振や、トヨタ自動車工業株式会社などからの排水が稲作に及ぼす影響といった公害報道が、直接的な被害にあっている地区の人々には深刻であるものの、公害追放運動が全市民的な運動になっていない点を問題視した。被害者である市民の陳情を受ける行政当局側が問題を市民全体に知らせたがらないことや、直接的な被害にあっていない市民には他人事と受け止められている点に原因があるのではないかとしている。市民へのアンケート結果から公害問題の共通性を探り、個々の公害を一部の地区の問題とするのではなく、全市民的な運動を行うべきと訴えた。アンケートによると、川の汚濁への意識は西広瀬などの農村部にくらべて高橋住宅などでは低い。この結果を小林は、川と日常生活の関係の深さに原因があるとみている。河川環境の悪化が顕著になっていくなか、会は昭和47年4月中旬頃から独自のパトロールを行っている。山砂利業者に対する監視活動で、会が県や市などに頼らなかったのは、汚濁による被害者は流域住民1人ひとりであり、住民運動によって加害者の責任を徹底的に追及していくことが、根本的な公害撲滅の方法という考えがあったからである。その結果、ある山砂利業者から2日に1回の間隔で濁水のたれ流しが認められたため、直接注意し、今後行わないことを約束させた。昭和47年6月には、県警保安課と豊田署が3つの山砂利業者の事務所などを水質汚濁防止法違反の疑いで捜索した。その際に小林収は、業者の責任で流し続けたヘドロを取り除き、今後は物理的に流すことができないようにすべきと語っている。

『新修豊田市史』関係箇所:5巻205ページ、14巻322ページ