トヨタ自動車

 

(トヨタじどうしゃ)

【近代】

昭和12(1937)年8月28日に設立された自動車製造会社。設立時の正式名称はトヨタ自動車工業株式会社(トヨタ自工)であった。トヨタ自工の前身は、豊田自動織機製作所の自動車部である。これは昭和8年9月に設立されたといわれており、自動車事業への進出を構想する豊田喜一郎の意志によるものであった。昭和8年11月には、挙母町長中村寿一に用地買収の斡旋を依頼し、昭和10年12月、58万坪の工場用地を論地ケ原に取得した。昭和11年9月、豊田自動織機は自動車製造事業法の許可会社に選定されたが、生産台数の拡張を商工省から要求された結果、挙母工場の建設資金が増大し、豊田自動織機の資金調達能力を超えたため、資本金1200万円のトヨタ自工が設立されたのである。初代社長は豊田利三郎、同副社長は豊田喜一郎であった。その後、昭和12年9月29日に挙母工場の起工式が実施され、同13年11月3日に竣工式が実施された。戦時期のトヨタ自工は女性労働者を積極的に雇用するとともに、猿投農学校、挙母中学校、挙母高等女学校からの勤労動員を受け入れた。また、航空エンジン生産にも進出し、川崎航空機工業と共同で東海飛行機を設立した。

『新修豊田市史』関係箇所:4巻664ページ

→ 東海飛行機中村寿一

【現代】

昭和20(1945)年9月にトラックの製造が可能となり、12月8日に民需転換の許可を得たトヨタ自工は、社長豊田喜一郎を中心に再建に乗り出した。折しも金融引締めによるデフレによって深刻な経営難に陥ったが、日本銀行の斡旋による24行からなる協調融資団の支援などを受けたのち、経営再建の条件であった販売部門の分離独立を実施、昭和25年4月3日にトヨタ自動車販売株式会社(トヨタ自販)を立ち上げた。その後、人員整理をめぐる労働争議を収拾し、朝鮮戦争の特需を背景に立ち直ると、昭和26年に「設備近代化5カ年計画」を策定、月産3000台を目標に掲げ、昭和30年1月に日本初の本格的乗用車としてトヨペット・クラウンの販売を開始、昭和32年7月にはタクシー業界からの要請を受けて小型車であるトヨペット・コロナを、昭和36年6月には当時の通産省(現経済産業省)が提唱した「国民車構想」に対応して小型大衆乗用車パブリカをそれぞれ発売した。これに先立つ昭和34年8月には日本で初めての乗用車専門工場である元町工場が稼働、その年に昭和31年以降の目標であった月産1万台を達成、続く昭和36年6月に全員参加による経営管理の改善を目指してTQC(Total Quality Control)を導入した。必要なものを、必要なときに、必要なだけ作ることを目的とする「かんばん方式」による生産管理方式が取り入れられたのは、これに続く昭和38年のことである。一方、この頃の高度経済成長に伴うモータリゼーションの浸透は自動車業界の飛躍的な成長を可能としたが、同時期に持ち上がった乗用車の輸入自由化や資本の自由化などの問題は業界の再編成を促し、国際競争力のさらなる強化を要請した。その対応として月産5万台を目標に据えた工場の拡充を展開、元町工場の拡張に続き、昭和40年11月に新たにエンジン専門工場として上郷工場を建設、さらに昭和41年10月に日野自動車工業(現日野自動車)、翌年11月にはダイハツ工業と業務提携を結んだ。これと同じ時期の昭和41年11月にはのちにトヨタを代表するブランドとなるカローラが発売されている。翌月、月産10万台を目標に高岡工場が完成し、翌年5月に東富士工場(静岡県裾野市)、昭和43年7月に三好工場(三好町)、昭和45年11月に堤工場と次々と工場を建設、その後、オイルショックの影響で減産に追い込まれたこともあったが、昭和49年4月から増産に転じ、同年にはカローラが車名別生産台数で世界一を獲得した。さらに翌年3月の下山工場の稼働に続いて、昭和53年5月に衣浦工場(碧南市)、昭和54年1月に田原工場(田原市)が生産を開始している。この年には輸出累計が1000万台を突破したが、世界経済は低成長期へと移行していたため貿易摩擦が激化、海外での現地生産の問題と相俟って、より迅速な意思決定や経営資源の効率的な活用が求められた。そこで昭和57年7月1日にかつて経営再建の条件として分離を余儀なくされたトヨタ自工とトヨタ自販がいわゆる「工販合併」に踏み切り、その結果、資本金1209億491万1000円、従業員数5万6700人のトヨタ自動車株式会社(トヨタ自動車)が誕生した。合併後、国内販売200万台の実現に向けて体制の強化を図るとともに、昭和58年2月17日にアメリカのゼネラルモーターズ(GM)社との間で小型乗用車生産の合弁事業について合意が成立、翌年2月21日にトヨタ・GM共同のニュー・ユナイテッド・モーター・マニュファクチャリング(New United Motor Manufacturing, Inc. 通称NUMMI)が設立された。平成元(1989)年10月には輸入拡大を柱とする国際協調プログラムを発表、そこに国際企業として社会的な責任を果たしていくために社会貢献活動委員会を発足させる計画も盛り込まれ、以後、平成5年5月のボランティア活動支援施設であるトヨタボランティアセンターの設立、平成7年の社会貢献活動の基本理念の制定、平成9年10月の環境学習施設トヨタの森の開設などさまざまな活動を展開、のちに国内外の社会貢献活動に関わる事業は80を超えることになる(令和4年8月現在)。一方、平成20年のリーマン・ショックによる世界的な自動車販売台数の急減で、創業期以来の営業赤字を記録したにもかかわらず販売台数で初の世界一を獲得し、翌年には黒字に転換することに成功、その後、リコール問題や東日本大震災などの影響もあって一時後退したものの、平成24年に改めて販売台数世界一の座に返り咲いた。平成30年10月、「100年に一度の大変革の時代を生き抜くために」と題したメッセージを発信した当時の社長豊田章男は、その中でトヨタを「自動車をつくる会社」から「モビリティカンパニー」にモデルチェンジすると宣言し、これからの自動車会社がやるべきこととして、モビリティによって、すべての人に移動の自由と楽しさを届けることを掲げている。


『新修豊田市史』関係箇所:5巻475・479ページ、13巻525・533・546・552・567ページ、14巻300ページ

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