(とよだしょういちろう)
【現代】
豊田市名誉市民。トヨタ自動車株式会社名誉会長。大正14(1925)年2月27日、トヨタ自動車工業株式会社(トヨタ自工)の創始者喜一郎と高島屋の創業者の一人飯田新七の娘二十子の長男として、名古屋市白壁町に生まれる。昭和12(1937)年4月、東京府立第一中学校に入学。卒業後、第一高等学校を経て、昭和19年10月に名古屋大学工学部機械科、昭和22年10月には東北大学工学部大学院に入学する。その後、昭和25年6月のユタカプレコン(トヨタT&S建設株式会社)の創業にかかわり、昭和27年7月に、当時の社長石田退三の要請に従いトヨタ自工に入社、入社当初の肩書きは取締役検査部長であった。昭和33年7月には33歳という若さで元町工場建設委員長に就任、昼夜の突貫工事を指揮して当初の予定通りに昭和34年7月末に完成させた。昭和35年6月に技術部担当取締役、翌年1月に常務取締役、昭和42年10月に専務取締役に就き、昭和47年12月には取締役副社長に就任、トヨタ自工を代表すべき存在となっていく。昭和56年6月には、翌年7月1日に実現することになる、トヨタ自工とトヨタ自動車販売株式会社(トヨタ自販)による「工販合併」の布石としてトヨタ自販の社長に就任、「工販合併」によってトヨタ自動車株式会社(トヨタ自動車)が誕生すると、その初代社長の座に就いた。社長就任後、貿易摩擦の解消を目指して海外生産を加速させ、昭和59年2月にゼネラルモーターズ(GM)との合弁会社NUMMIを設立するとともにトヨタ自動車単独でアメリカやイギリスに工場をつくる決断をするなど、国際的な展開を強力に推し進めた。平成元(1989)年9月にはLEXUS(レクサス) LS400の開発を主導、一定の成功を収め、日本車すなわち大衆車という固定観念を払拭、以後、高級車ブランドとしてのレクサスの地位は不動のものとなっていく。平成4年9月に取締役会長に就任、これに先立つ平成2年5月には各種経済団体の連絡機関である経団連の副会長となり、平成6年5月から平成10年5月まで自動車業界出身者として初めて会長を務めた。その間、規制緩和や法人税率引き下げを政府に働きかけ、企業行動憲章を見直したほか、経団連事務局役員に定年制を導入して事務局改革を推進している。平成10年5月に経団連名誉会長、翌年6月にはトヨタ自動車株式会社取締役名誉会長に就任(平成21年6月名誉会長)、その後、2005年日本国際博覧会(愛・地球博)では博覧会協会会長として運営を指揮した。昭和59年11月に藍綬褒章を受章して以降、数多くの勲章を授与され、平成23年3月5日に豊田市名誉市民、同年12月3日に愛知県名誉県民にそれぞれ推挙された。令和5(2023)年2月14日死去。享年97。写真はトヨタ自動車株式会社提供。