(とよとみひでつぐ)
【古代・中世】
豊臣秀吉の甥で養子。秀吉の後関白を継承し、尾張国の領主でもあった。秀吉の姉瑞竜院日秀と三位法印常閑の長男で、四国の三好康長(笑巌)の養子となるが、その後秀吉のもとで天下統一戦争に参加。天正13(1585)年近江国等で43万石を領して近江八幡山城主となる。同18年織田信雄転封後の尾張国を領し、信雄領であった市域の高橋郡も継承した。また、三河・遠江・駿河の各国には秀次配下の与力大名らが配され、東海地域全体を取り仕切った。天正19年12月内大臣に任じられ関白職が宣下される。尾張国に加えて、摂津・近江・伊勢・美濃国内に秀次の蔵入地を領した。関白となった秀次は京の聚楽第で執政し、尾張は父常閑が統治した。天正20年尾張国内で検地を実施し、高橋郡内の太閤検地帳が伝存する。文禄4(1595)年7月、秀吉への謀反の嫌疑を受け、関白職を解職され、高野山に追放後自害。室と側室、子女らは三条河原で殺害された(秀次事件)。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻607ページ