内藤学文  1751~1794

 

(ないとうさとふみ)

【近世】

挙母藩内藤家の2代藩主。紀州藩主徳川宗将の4男で、挙母藩内藤家初代藩主内藤政苗の養子。宝暦元(1751)年に紀州藩江戸藩邸で生まれる。内藤政苗の子政平が病により明和元(1764)年に嗣子の座を返上したのに伴い、学文が養子に迎えられ嗣子となった。学文は明和3年に隠居した政苗の跡を継ぎ従五位下山城守に叙任。その後、官途名を丹後守、右近将監と改めている。安永9(1780)年、水害などにより遅々として進まない挙母城(桜城)築城に見切りをつけ、新たに樹木台に挙母城(七州城)を築くことを幕府に願い出て許可を得ている。藩士の教育にも力を入れた。内藤家は上野国安中藩時代には藩校を設けていたが、挙母転封以後は設置していなかったので、伊藤東涯の子伊藤東所を賓儒として迎えて藩校を崇化館と名付けて再興している。寛政6(1794)年、44歳で死去。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻78・623ページ

→ 挙母城挙母(衣)藩崇化館