(ないとうまさとも)
【近代】
安政6(1859)年2月28日、挙母藩主内藤政成の12男として生まれる。幼名嘉若。明治7(1874)年6月10日に家督相続、明治17年7月の華族令によって子爵に叙せられた。これに先立つ明治14年9月にイギリスに留学し、グラスゴー大学で海事工学を研究、ヨーロッパ諸国やアメリカの各工場を視察し、明治18年5月に帰国した。同年10月に海軍省御用掛を拝命、主船局勤務を命じられるが、翌月には兵庫県下の小野浜造船所勤務に転じ、12月には非職となる。その後、明治19年11月に海軍大技士に任じられたのち、明治20年2月に川崎造船所機械科主任に招聘され、11月には工学士の称号を授与された。一方、貴族院には明治23年7月10日に実施された第1回伯子男爵議員選挙に当選以来、死去する明治35年まで子爵議員として議席を占め、その間に製鉄事業調査会委員、造船規程調査委員などを務め、明治35年6月には東京市会議員にも当選している。同年11月22日に特旨を以て従三位に叙せられ、同日に43歳で没した。死後、光臺院(東京都港区)に葬られる。その死去に際しては旧藩士族惣代として挙母町長の草野半と松下常見が上京している。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻398ページ
→ 草野半