(ないとうまさひろ)
【近世】
挙母藩内藤家5代藩主で、挙母藩中興の祖といわれる人物。近江国彦根藩井伊直中の8男で、挙母藩内藤家4代藩主で井伊直中の5男であった兄政成の養子となり、天保元(1830)年に藩主となる。大老井伊直弼は実弟にあたる。当時の挙母藩の財政は極めて悪い状況にあり、天保12年には、役職の配置替えを伴う改革仕法を行った。また、大坂加番に就くことで得られる幕府からの合力米に財政改善の光明を見出し、幕府への要望の結果、天保10年に大坂加番代を仰せ付けられた。政優は古伝弓馬の法を熱心に研究し、藩士に武術を奨励した。天保13年には藩士安藤早太郎に東大寺通し矢に挑ませ、安藤は総矢数1万1500本、通し矢8685本という偉業を成し遂げた。また、藩校崇化館に塩谷宕陰や秦寿太郎らを招聘し、授業料や旅費等を負担して優秀な藩士を江戸で学ばせるなど、人材育成を行った。嘉永4(1851)年、42歳で死去。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻79・604・626ページ