内藤政光  1891~1961 

 

(ないとうまさみつ)

【近代】

明治24(1891)年3月24日、旧三河挙母藩主家当主内藤政共の長男として出生。明治35年12月23日、父政共の死去に伴いわずか11歳で家督相続した。そのため明治36年に政光の輔翼を目的に旧挙母藩士族によって挙母協同会が、続く明治42年には挙母協和会が発足することになる。大正11(1922)年に東京帝国大学文学部を卒業後、同13年に実践女子専門学校講師となり、以後、国士舘専門学校講師、帝室博物館歴史課事務嘱託、同館学芸委員などを務め、外務省調査局にも勤務した。貴族院には子爵議員として昭和21(1946)年5月から翌年5月の貴族院の廃止まで在任し、研究会(貴族院内の会派の一つ)に所属した。考古学に造詣が深く、柴田常恵とともに『日本考古図録大成』第7輯「埴輪」(日東書院、昭和5年)を著し、『帝室博物館学報』第6冊「上野國佐波郡赤掘村今井茶臼山古墳」(帝室博物館、昭和8年)、『東京府史蹟名勝天然紀念物調査報告書』第13冊「東京府下の古墳」(東京府、昭和11年)などには政光の製図や実測図が掲載されている。また後藤守一らとともに『静岡県磐田郡松林山古墳発掘調査報告』(静岡県磐田郡御厨村郷土教育委員会、昭和14年)を刊行した。昭和36年3月28日、70歳で死去し、跡を旧日向延岡藩主内藤政挙の6男政恒が継いだ。


『新修豊田市史』関係箇所:4巻398・432ページ

→ 挙母戴恩会内藤政共