長坂貞一  1891~1969

 

(ながさかていいち)

【現代】

明治24(1891)年12月15日、碧海郡西端村(現碧南市)に生まれる。明治43年3月、愛知県立安城農林学校林科を卒業。大正元(1912)年12月から昭和4(1929)年4月まで農林省(現農林水産省)東京営林局森林主事を務め、昭和8年4月に挙母町役場主事となる。12年12月庶務課長、17年10月振興課長を兼務、20年から31年まで助役を務めた。31年挙母市長に就任、2期8年を務め39年退任した。長年にわたり地方行政事務に携わり、地方行政の発展に尽力した。市長就任後は、自動車産業を中心とした郷土産業の育成に努め、80数社にわたる工場誘致を図り、県下の内陸工業都市としての確固たる基盤を培った。このほか上郷町の合併をはじめ、駅前広場の造成、区画整理や都市計画の推進、住宅、道路の建設整備、水道、ガスの供給、鞍ヶ池開発事業の着手など、今日の豊田市の礎を築いた。この間の昭和33年には市名変更の動きが起こり、市民の意向が二分する中で市名変更を断行した。39年藍綬褒章を受章、43年12月15日に豊田市名誉市民に推挙された。44年1月5日死去。享年77。


『新修豊田市史』関係箇所:5巻7・14・16・146・159ページ

→ 市名変更問題