(ながたけ)
【近世】
近世挙母本町で酒造業を営んでいた商人で、のちに挙母藩士となった。永田家は、初代六兵衛家正が、池鯉鮒宿本陣の永田家から分家独立し衣(挙母)に居住したことに始まるという。3代六兵衛顕治は、「衣下町の図」に「文蔵」とある人物で、同家は城下で最大の屋敷を所持し、金谷村・下市場村近辺にある文蔵新田を開発し、宝暦5(1755)年の大川(矢作川)堤普請の出人足の分担をめぐる争論では取扱人となるなどの大家であった。顕治は、名古屋の俳人山本荷兮に入門し、荷兮が松尾芭蕉に入門するのと同時に顕治も入門を許され、俳号を舟泉としている。顕治の弟治知(清吉)も尹之の俳号を持つ俳人であったが、尾張熱田市場町の林家の養子となった。治知の次男が、知章(治章・道輝など)で、のちに顕治の養子となり、4代六兵衛となった。知章は、寛延2(1749)年の内藤家入封時に、内藤家と幕府代官天野正景との仲介役となり、年貢米などの荷物を江戸へ送る際には「船付帳」に記載する役割を担っていたが、やがて内藤政苗に仕え挙母藩士となった。知章は、寛政6(1794)年に『挙母記』を著すなど郷土研究を行い、蘭泉の号で漢詩にも長じ、享和3(1803)年に詩集『三河唫(吟)稿』を発表するなど文化人でもあり、漢詩を通じた伊能忠敬との交流もあった。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻339ページ