中根謙亨  1822~1900

 

(なかねけんきょう)

【近代】

挙母藩士で儒臣を務め、号を皎涯と称した。挙母藩に仕えていた出口篤忠の子どもとして文政5(1822)年9月20日に江戸にて生まれ、のちに中根伝之助の養嗣子となる。昌平黌にて学び、安政2(1855)年からは挙母藩の藩校崇化館の「助教」を務め、のちに「藩校副総裁」となる。明治2(1869)年に崇化館が廃止され、「弘道寮」(のち「皇道寮」に改称)が設置された際には「幹事」や「大教授」に就任し、翌3年には挙母藩大属などに任命されている。明治5年には加茂郡上伊保村にあった射穂神社の祠官に任命されている。また額田県下において郷学校の設置が奨励された際、加茂郡挙母村での挙母郷学校設置の請願活動の中心人物の一人となった。明治33年2月28日没、享年68歳。


『新修豊田市史』関係箇所:4巻63・101・397・400ページ

→ 郷学校崇化館