名古屋新道(平針街道)

 

(なごやしんみち(ひらばりかいどう))

【近世】

名古屋を起点として平針で名古屋街道から分かれて南東に進み、三河国に入り、堤・若林・竹村(いずれも高岡地区)を通り、池鯉鮒宿(知立市)・岡崎宿間の柿崎(安城市)・宇頭(岡崎市)で東海道に合流する道。平針街道や駿河街道とも称された。近世東海道が成立する以前から三河国と尾張国を結ぶ道として利用されており、新たに名古屋を尾張国の中心地とする軍事的政策のなかで整備された道であると考えられる。三河国から名古屋への直通路、近道として重宝されていたと思われ、時代が下るにつれて通行量・輸送量が増大し、通行を円滑にするために堤と平針に問屋が設置されていた。天保5(1834)年12月には、隣松寺(上郷地区)が檀家である竹村の九郎兵衛を名古屋新道の問屋として取り立ててほしいと尾張藩に願い出た。竹村は堤村に近い村であるが、堤村の問屋と同様に竹村での問屋設立が必要との内容であった。尾張藩の後ろ盾を得た上での願いであり、通行量の増大に目を付けたものであった。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻409ページ、8巻412ページ