那古野荘

 

(なごやのしょう)

【古代・中世】

尾張国の荘園。平安時代末期、院近臣であった葉室顕隆の子孫が開発を進め、建春門院(平滋子)の法華堂領とした。すなわち天皇家領として出発したものであり、以後も領家職は葉室一族によって継承されたと思われる。鎌倉時代後期、その領家職を保有していた松王は足助重澄の娘であった。葉室家の一族に嫁いでいたため、この職を継承したのであろう。当時の足助氏が京都の貴族社会と婚姻関係を結ぶような、武士社会でも高い家格を保持していたことがうかがえる。そののち、松王の兄弟である重房の娘の幸寿と、松王の娘の幸松から、それぞれの権利を受け継いだ者たちがこの荘園の領家職を争った。弘安8(1285)年に起こった霜月騒動で、重房は安達泰盛に与したとして討たれ、父重澄の所領が没収されたため、幸松の養女は、「罪科人」である重房の娘の幸寿から権利を継承した者が領家となってよいはずがない、と訴えをおこしたのである。裁判の結果は不明。その裁判資料として作成され、上記のような足助氏の状況を伝えるのが「尾張国那古野荘領家職相伝系図」である。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻267ページ