(なべ)
【考古】
外側から火を当てて中に容れた食べ物等を加熱する容器は、一般に鍋または釜と呼ばれる。鍋・釜には、土製(土器・陶器など)のものと金属製(鉄・銅など)のものとがあるが、遺跡からの出土例は前者がほとんどである。後者の出土例はごく稀でありその推移がよくわからないため、主には土製の鍋が考古学的な資料として扱われる。考古学では機能よりも器形を優先して土器名を付ける傾向が強く、縄文時代の食物等を加熱する煮沸容器は深鉢(深鉢形土器)、弥生~平安時代末(古代末)までの煮沸容器は甕(甕形土器)と呼ばれ、それ以降のものは鍋と称されることが多い。市域では10世紀以降に、上郷地区郷上遺跡などに口縁端部が短くて外側に折れた器壁の厚い清郷型鍋が現れる。次いで12世紀後半以降になると、口縁端部上面を「く」の字状に折り返して重ねた南伊勢系のいわゆる伊勢型鍋が現れる。これと相前後して高岡地区の金池古窯群(12世紀後葉)などで焼成された陶製の鍋・釜類も少量ながら広まった。しかし、この陶製の鍋・釜類は13世紀代に入ると衰退し、13世紀後葉になると、後に胴部の最大径が鍔部よりも大きな鍔付鍋あるいは内湾型羽釜と称される鍋が伊勢型鍋に伴うようになる。伊勢型鍋や内湾型羽釜は15世紀中葉にはみられなくなり、15世紀後葉になると、それらに代わって羽付鍋と内耳鍋、釜(写真13:郷上遺跡)の3種が一斉に登場してくる。土師器の羽付鍋は器壁が厚く、口径が40cmを超える大型の煮炊具である(写真1~4:同前)。内耳鍋は口径30cm以下の大きさで、東海地方では主に口頸部が「く」の字形内耳鍋、半球形内耳鍋、内湾形内耳鍋の3種がみられる。市域の内耳鍋では、まず15世紀中頃に東三河や遠江地方で多くみられる「く」の字形内耳鍋(写真5・6:同前)が現れ、同後葉には尾張地方で多くみられる半球形内耳鍋(写真7~11:同前)に切り替わっていく。16世紀になると内湾形内耳鍋(写真12:同前)もみられるようになり、17世紀まで半球形内耳鍋と内湾形内耳鍋の2者が併存し、最終的には半球形内耳鍋に収斂していったと考えられている。なお、この他にも羽付内耳鍋で口径が30~40cmの内耳と鍔の両方を有する羽付内耳鍋が郷上遺跡などでわずかに確認されている。なお、これらの清郷型鍋および伊勢型鍋以外の土製の鍋・釜類は、鉄製の鍋・釜類を起原としているとみられている。また、清郷型鍋を「甕」、内湾型羽釜(鍔付鍋)・羽付鍋・羽付内耳鍋を羽釜として「釜」の範疇で捉える見解もある。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻663・665ページ、20巻121ページ