二階堂氏

 

(にかいどうし)

【古代・中世】

鎌倉時代、三河の重原荘の地頭をつとめた武家。『尊卑分脈』では藤原南家の末裔とされ、伊豆の豪族である工藤氏と同族である。一方、平安時代末には駿河守や五位に昇る者もいたとされ、京都で活動して貴族社会の下部に属するようになっていたらしい。そうした多面性が、源頼朝による鎌倉幕府の開創に伴い、その吏僚として藤原行政が活躍する素地となっていたのであろう。二階堂の苗字は、行政が鎌倉の二階堂に住んだためという。承久の乱(1221年)で重原氏が没落すると、代わって行政の孫の元行が重原荘の地頭となる。以後、行氏を経て行景までの三代にわたり重原荘地頭職を継承した。二階堂氏は鎌倉に居住していたから、各地の所領には代官を派遣したものであろうが、行氏が子孫に残した置文では重原荘について隣接する志貴荘との関係に言及するなど、現地の状況に通じていたことがうかがえる。弘安8(1285)年の霜月騒動で行景が殺害され、重原荘も北条一族の大仏氏のものとなった。以後、二階堂氏と重原荘との関係が復活することはなかった。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻245ページ