(にしざわしんぞう)
【近代】
西沢は弘化元(1844)年10月、近江国愛知郡野々目村の麻布・綿布を取り扱う商家に生まれた。明治16(1883)年大阪銀行の創立発起人となり、その後大阪北浜に雑貨店を設立、また製糸工場を建てるなど実業家として活躍を始めた。枝下用水の開鑿計画が工事費問題などもあって進捗をみせないなか、明治20年10月、それまで計画を進めてきた時田光介・大倉直市郎に西沢らが加わって、工事の実現に向けた請書を愛知県知事勝間田稔に提出した。時田・西沢らは明治20年から37年にかけて、用水の開鑿と官有地の開墾を実施する計画であった。時田はその後用水計画から手を引き、西沢が一手に開鑿工事を引き受けることになった。27年いったん事業は紀州徳川家の家令堀内信に起業権を委ねたが、29年に再度西沢の手に戻った。西沢は事業の完成をみないまま、30年3月に死去し、起業権は遺児徳太郎へ継承された。しかししばらくして起業権は西沢家から離れ、東京の実業家の河村隆実の手に移った。西沢の用水開鑿事業への功績は地元では讃えられ、32年5月建立の「沢流後世」碑を始めとして、数多くの顕彰碑が市内各地に建立された。また現在もなお西沢の追悼の行事は続けられている。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻160・329・582ページ
→ 枝下用水