(にしひろせやくしょ)
【近世】
旗本青山家が知行所支配のために西広瀬村(猿投地区)においた役所。旗本青山家は、もとは額田郡百々に居住していた家で、寛永20(1643)年に摂津国尼崎藩主青山幸利の弟幸正が2000石を分与されたことに始まる。その後、享保5(1720)年に幸亮が2代幸豊の養子となり、家督を継いだ際に、加茂郡に21か村1000石の知行を得て、合計5000石の知行所を持った。青山家は幸亮以後知行所を変えることなく8代続き、明治維新を迎え、三河国の知行所は伊那県管轄となった。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻50ページ