如意寺

 

(にょいじ)

【古代・中世】

力石町に所在する真宗大谷派寺院。寺伝では、親鸞聖人六老僧の一人に数えられる荒木の源海が武蔵国荒木に満福寺を開き、荒木門徒の拠点としたが、その荒木満福寺が三河に移り、如意寺になったという。親鸞-真仏-源海という系譜で成立した荒木源海門流は関東から三河のみならず全国各地にその勢力を伸長させ、この門流から明光門流や佛光寺・興正寺勢力も出現したと考えられている。如意寺が所蔵する3幅本の親鸞絵伝(国指定文化財)は、定型化する以前の古態と特色を持つ。その成立事情を記録する添書によれば、同絵伝は文和3(1354)年に「荒木源海聖人門徒」の「三州高橋庄志多利郷如意寺」の「住侶釈教蜜了感」が「大勧進」となり、さらに地元の僧尼らが「大檀那」・「大施主」となって制作されたものである。「大施主」の一人として記される「性善房」は『三河念仏相承日記』にもその名がみえ、同一人物の可能性が指摘される。また、寺蔵の光明本尊のうちには、荒木満福寺の歴代に数えられる「源海聖人」「海信聖人」「海圓聖人」も描かれている。光明九字名号も所蔵し、これらの所蔵法宝物から如意寺が初期真宗門流の時代からの歴史と系譜を持つことは確実である。なお、寺蔵の「木造源海上人坐像」は市指定文化財である。また、平安時代の大般若経2巻(市指定文化財)、室町時代の大般若経3巻も所蔵する。ところで、永正15(1518)年、「賀茂郡高橋荘志多利郷」に所在した「満福寺門徒」の「浄念」に「如意寺常住物」として「方便法身尊像」が本願寺実如から授けられている(同絵像裏書)。ここから、如意寺が満福寺門徒であり、荒木満福寺そのものではないことがわかる。とはいえ、如意寺が所蔵する複数の由緒書には荒木満福寺の系譜を詳しく記し、密接な関係にあることもまたうかがえる。実如の時代に本願寺教団に参加した如意寺であるが、三河一向一揆や本願寺東西分派の流れの中でどのような動きをみせたのかについては、いくつかの由緒的事績は伝えられるものの、史実の詳細には不明な点が多い。慶長年間に現在地に移るといい、慶長10(1605)年に顕如影像を教如から授けられている。東本願寺の創立(慶長9年)に深く関与したがためであろう。如意寺は江戸時代の延宝年間(1673~81)では東本願寺と直接、本山免物のやりとりをしていることが『粟津家申物帳』からわかるが、その後、『貞享四年末寺覚』という勝鬘寺末寺には如意寺も載っている。勝鬘寺の触下寺院に加えられたということであろう。天保7(1836)年には当時の住職源秀が「三河国加茂郡百姓蜂起風聞留」という加茂一揆に関する記録を作成したことも知られる。なお、現在の本堂・山門・太鼓楼・書院はこの源秀の時代、文政~天保年間に再建されたものである。これらに宝暦5(1755)年建立の鐘楼を合わせた5棟が平成25(2013)年に国の登録有形文化財に登録された。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻354ページ、6巻607ページ、21巻42・285・288・290ページ、1号21ページ、特別号88・120ページ

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