(にょいじほんどう・しょいん・さんもん・しょうろう・たいころう)
【建築】
力石町(石野地区)。慶長10(1605)年に現在地(力石町)に寺を移して堂宇を再建、その後、20世源秀の代である文政~天保年間(1818~44)に現在の伽藍が整えられた。本堂(写真)は棟札および古文書により文政6(1823)年頃の建立であること。大工棟梁は横松(現知多郡阿久比町)住人の山本金四郎貞次である。なお、昭和33(1958)年に屋根葺替、平成23(2011)年に屋根葺替と耐震補強修理を行っている。本堂は、桁行11間(実長11間半)、梁間9間半(実長11間半)、入母屋造、桟瓦葺で、正面に1間の向拝を付す。軒は二軒繁垂木。間取りは、堂前半の正側三方に広縁と落縁を配し、堂内前半の桁行7間、梁間4間を外陣とする。外陣後方の1間通りを矢来内とし、その奥中央に桁行3間、梁間2間の内陣を配し、内陣両脇を余間、余間の外に飛檐の間を配する。飛檐の間の前方には板間を配し、堂背面に後堂を設ける。来迎柱および内陣・余間廻り、矢来内と外陣内部の柱を円柱とし、その他は面取角柱を用い、来迎柱を除いて建て登せ柱とする。落縁・広縁境の柱間、矢来内正面の柱間、外陣内梁行の柱間、内陣および余間正面の柱間、脇仏壇・余間仏壇正面の柱間に虹梁を渡し、外陣内の虹梁上には蟇股、矢来内正面には出組斗栱を載せる。外陣外部の柱上には出三斗を置き、柱間には双折桟唐戸と障子を入れる。内陣・余間正面は柱上に出組を置き、中備に蟇股を配し、柱間には巻障子を吊る。余間の床は上段、内陣は上々段とし、内陣および余間内部にも出組と蟇股を配す。天井は広縁を板天井、外陣と矢来内を小組格天井、内陣と余間を折上小組格天井とし、飛檐の間と後堂を棹縁天井とする。この本堂は、江戸時代後期における当地方の真宗寺院本堂を代表する遺構の一つといえよう。書院は、寺蔵文書により文政~天保年間(1818~44)の建立である。桁行実長8間、梁間実長5間半、切妻造、桟瓦葺の建物で、主屋の四周に庇を廻らせている。現本堂の再建に際し、仮本堂として建立されたと伝えられる。山門は中型の四脚門で、両脇には築地塀が取り付く。墨書により文政9年の建立である。鐘楼は寺伝により宝暦5(1755)年の建立と伝えられており、様式上も本堂・山門より古い遺構と考えられる。基壇上の東端に建ち、単層で1間四方、入母屋造、桟瓦葺の鐘楼で、軒は二軒繁垂木である。太鼓楼は寺蔵文書により文政~天保年間の建立であることが知られる。木造2階建で、下層は桁行6間、梁間3間、入母屋造、桟瓦葺、上層は桁行・梁間とも2間、入母屋造、桟瓦葺、一軒疎垂木で、棟は東西方向を向く。如意寺には、江戸時代後期から末期に建立された本堂・書院・山門・鐘楼・太鼓楼が現存し、近世の真宗本堂らしい伽藍構成をよく伝えている。国登録有形文化財である。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻109ページ