(のうかのけんぎょうか・だつのうか)
【現代】
高度経済成長期に、農業以外の仕事を行って収入を得る世帯員が農家にいる兼業化のほか、農業をやめて他の仕事に就く脱農化が進展した。日本の兼業農家率は、昭和45(1970)年に35年から18.7%上昇して84.4%になり、農家の過半数が第2種兼業農家、3分の1強が第1種兼業農家で占められた。兼業農家では、世帯主等が農外就業を行い、他の家族が農業経営を行ったことから、三ちゃん農業と呼ばれた。同時期に、日本の農家数は65万戸強が離農して540.2万戸となり、昭和60年には437.6万戸まで減少した。同年の兼業農家率は85.7%であり、第2種兼業農家率は68%にまで上昇して兼業所得を主とする農家が大勢になった。兼業農家の増加は、都市化や工業の地方分散によって農外就業の機会が増え、他方で水稲作の機械化等によって農作業が省力化されたこと等によってもたらされた。豊田市では、高度経済成長期以前からガラ紡等の農家副業が松平地区を中心に行われ、さらに成長期の工業化に伴う労働力を市内や周辺の中山間地域に求め、離農と兼業化が進展した。中山間地域では、マイクロバスの送迎による通勤兼業がみられたり、松平農協による農村工家事業が行われたりした。兼業化は、それに対応した特色ある養蚕経営としての共栄養蚕も生み出したが、養蚕業を衰退させる一因ともなった。他方、豊田市の農家数は、昭和55(1980)年に8000戸弱となり、昭和35年から2600戸強の減少をみた。他方、兼業農家数は、昭和55年に7600戸強で昭和35年から66戸しか減らなかったものの、その91.2%を第2種兼業農家が占め、全国よりも兼業が深化した地域となった。その後、平成12(2000)年に、農家数は5000戸を下回り、合併後の平成17年から27年にもさらに1500戸ほどの減少をみた。兼業深化は、雇われ兼業として農家の所得安定に結びつき、他方で兼業農家等の農地を農業生産組織・生産法人等へ利用集積させたり、集落営農を組織化させたりした。また、農外就業者の定年後の生きがいづくりとして、農業塾や農ライフ創生センターが組織されたのも本市の特徴である。
『新修豊田市史』関係箇所:5巻88・214・239・252・259・416・446・715ページ