農業生産組織

 

(のうぎょうせいさんそしき)

【現代】

農業生産過程における労働力・農業用機械・土地等の組織的利用を通して、複数の農家が共同活動を行う農家集団のことを指す。稲作の場合、集団栽培等の労働力に関わる共同活動が1960年代に始まり、兼業化の進展のなかで、それが瓦解した後、1970年代に稲作の機械化とほ場整備の進捗を受けて、農業用機械の共同利用組織や農作業を請け負う受託組織等が組織された。その背景には、規模拡大が不十分な農家と自ら経営できない兼業農家という両者の存在があった。1980年代には、米の生産調整に伴う水田利用再編の中で、麦・大豆等の転作における集団的土地利用を地域単位で行う土地利用調整等の組織が設立され、それらと受託組織等とが結びついて地域農業の集団的・組織的取組が行われ始め、地域営農組織が形成された。これは、集落を単位とすると集落営農と呼ばれる。こうして、受託組織や協業経営等による組織的な大規模経営体が発展し、それらの農事組合法人、有限会社・株式会社といった農業法人化がみられた。このような日本全体の動向に対して、豊田市の水稲作でも、昭和30年代に設立された集団栽培組織が兼業化によって昭和40年代に崩壊して、高岡地区に受託集団(中甲・若竹)が組織化され、昭和50年代に農外就業農家の農地を経営受託することで大規模経営組織体へと発展していった。他方で、昭和50年代には、水田転作の団地化も求められ、上郷地区では土地利用調整を行う農事組合と受託組織(桝塚会)が形成され、他地区でも集団転作が広がった。その後、挙母地区でも受託組織(逢妻)が設立された。これら受託組織は、各年代に中日農業賞、日本農業賞、農林水産祭等において受賞の栄誉に輝き、全国的に評価されていく中で、農事組合法人(中甲はその後、株式会社化)となり、法人経営に移行した。なお、中山間地域を抱える、石野・松平両地区を中心に、農業用機械の共同利用等を行う、集落営農組合も展開されている。

『新修豊田市史』関係箇所:5巻226・420・573・722ページ

→ 集落営農農業法人